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2025/06/19 22:19 |
天皇陛下の馬鹿野郎
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合軍に対して無条件降伏し、陸海軍の将兵は悉く武装解除され、わが海軍も解体することとなった。私のいた関西のある航空隊でも、軍艦旗降下、奉焼があり、分隊士からは軽挙妄動は厳に慎み、決して腹を切ったりするなと言い渡された。しかし、近くの航空隊では少尉候補生が割腹自殺したとの話があり、若い士官で山に立て籠もる、徹底抗戦するとか物騒なことを言っていたものもいた。8月下旬にようやく一段落し、一部の士官・下士官のみ残務整理で残ることとなり、その他の隊員には復員命令が下った。私も、わずかな荷物をもって、最寄駅まで歩く道すがら、顔見知りの衛生兵と出会ったが、別れの挨拶をすると「森兵曹もお元気で」と彼はペコリと頭を下げた。こうして悄悄として復員すれば、故郷を目前とした乗換駅で、鬱屈した無念さとどの面下げて帰ることができるかという思いから、汽車がホームに入ってきてもベンチから立つことが出来ず、親切な駅員さんに促されて、ようやく長らく帰っていなかった故郷への帰途についた。

日本は負けた。それは軍国少年であった私には、余り考えて見なかった事態であった。日本は負けたのに、故郷の駅も、山や川も何も変わらないように見える。しかし、出征の時の見送りの騒ぎに比べ、私を待っていたのは父母と兄などの家族のみであった。在郷軍人であった兄は、私が出征中に嫁をもらい、その義姉とは初対面であった。兄は「占領軍に取り上げられる」といって軍刀を油紙に巻いて山に隠し、これからの生活をどうするかとしきりに言っていた。
友人たちも、ちりぢりになっていた。同じ村の出身で、中学で秀才の誉れの高かった先輩は、陸軍の見習士官として南方で戦死したとのことであった。

一番ショックであったのは、母方の従兄が中支で戦死していたことである。従兄のいた東部軍三十八部隊は中支を転戦していたのだが、従兄が戦死した場所は、中華民国浙江省湯渓県にある洋東橋という橋のたもとであったことを、母から教えられた。それがどんな戦闘であったのか、私は知らない。国民党軍か、八路軍か、相手も分からないが、中国兵との戦闘で戦死したことだけは間違いない。1943年(昭和18年)には既になくなって、戦死の公報も来ていたのだが、私の訓練のさわりになると、わざと知らせなかったのだという。この従兄とは、年が近かったこともあり、子供の頃よく遊んだ。しばらくして、従兄の墓に線香を供えにいった。

「故陸軍歩兵伍長 ・・・」と位階勲等と従兄の名が刻まれた、先祖代々の墓よりも大きい、角錐型の墓標が建っていた。その墓に線香を供えると、ふと出征前にみせた従兄の淋しそうな表情や子供の頃トンボを捕まえて笑っている顔などが瞼に浮かんできた。墓碑には「何月何日神戸港から出航して中国へ上陸、各地を転戦、何月何日浙江省湯渓県洋東橋橋頭にて壮絶な戦死を遂げる云々」と書かれていたが、従兄は戦争に行きたいとは思っていなかったのであろう。従兄ともう一人の応召兵の壮行会では、そのもう一人の兵隊は威勢がよかったが、従兄は対照的に元気がなかった。恋人がいたのか、とにかく未練を残した出征であったと思う。日本は、中国を侵略した。それはいかなる大義名分もない。優しかった従兄も、行きたくない戦争に行き、戦いたくない相手と戦って、侵略軍の「東洋鬼」の一人として中国兵に討たれたのである。
「天皇陛下の馬鹿野郎」と言いながら、その墓前に突っ伏して私は泣いた。

それから、まもなく私は上京した。
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2007/10/08 00:41 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某

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