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2025/06/19 21:30 |
シンガポールの華僑虐殺

img_373288_1294407_0.jpg以前、シンガポールの仕事を少しだけしたことがある。相手は中国系。もっとも、シンガポール人の80%は中国人である。他にマレーシア系やインド系住民がいるが。
そのシンガポールの中国人は、殆ど華僑出身者である。戦時中シンガポールは、昭南島などと呼んでいた。そして、もともと日本人も多く住み着いていたが、英国を破ってからは日本軍が我が物顔で占領していたのである。そのシンガポールで日本軍による華僑虐殺事件が起きたのは、南京大虐殺ほどは知られていない。

以下は、小生の親族の元陸軍野砲兵軍曹の話。

その親族、すなわち森軍曹のいた部隊は中国各地を転戦し、広州へ入った後、仏領インドシナ(今のベトナム)へ侵攻した。殆ど無抵抗で無人の野を行く如く、インドシナを南下したのは、太平洋戦争初期の時期であった。それは、ちょうど真珠湾攻撃が行われたのと同時期で、海軍が真珠湾なら、陸軍は仏印へ攻め入ったのである。インドシナの最南端シンガポールでは英国軍が頑強に抵抗したが、昭和17年(1942)2月15日ついにシンガポールは落ち、日本軍がシンガポールに入ることになる。例のパーシバルに対する山下奉文中将のイエスかノーかと無条件降伏を迫る問答があったのは、この時である。

森軍曹は、仏領インドシナからシンガポールに入る以前は、中国南部を転戦していたが、その際負傷し、姫路の陸軍病院に入院していた。姫路陸軍病院を退院し、また野戦へ出た訳である。
ともかくも、日本軍が入った後の2月17日に河村参郎陸軍少将が、シンガポール警備隊長に任命された。シンガポールの華僑を粛清すべしという命令は2月18日に出されている。「敵性華僑」を摘発するため、華僑は市内の指定地に集合させられた。この摘発は3回におよび、言葉も通じないまま、例えば「眼鏡をかけている」とか「英語を使っている」といった外見や態度だけで判別したり、現地の人に密告させたりして、多くの華僑を裁判なしで死刑にした。その犠牲者の数は、日本側では5000人とされているが、現地では約4~5万人とする説もあり、具体的な人数はわからない。その際に一箇所にまとめて、「処刑」したそうで、前後数回にわたりそうした虐殺があった。その華僑虐殺の立案者は、例の辻政信参謀であった。それについては、1946年(昭和21年)12月23日のシンガポール英軍法廷での杉田市次大佐の宣誓陳述書に「私ハ辻大佐(ママ)ガ10,000人ノ支那人ガ殺害サレルベキデアルトノベタノヲ知ッテ居リマス」とある通りで、旧満州での謀略に続き、シンガポールやマレーでも悪魔のごとき計画を考えたわけである。

Tuji_Masanobu.jpg辻政信の如き、謀略をこととする参謀がいた反面、日本総領事館の篠崎護のように、華僑虐殺に対して昭南華僑協会を組織して華僑の保護にあたった日本人もいた。辻参謀は1942年(昭和17)2月の華僑集合命令に際して、シンガポール駅前広場に集合した華僑について、その地域の責任者であった久松憲兵中尉(当時、終戦時大尉) に「殺ってしまえ」と命じたが、久松中尉からそれを聞いた久松の上官の城朝龍少佐は、「残忍な辻のやりそうなことだ。かれは軍の一幕僚ではないか。君らに命令する権限なんかありゃせん。その住民らは即刻退散させよ」と命じ、この一言で数千人の住民が救われた。なお、城朝龍少佐は、その上官の第二野戦憲兵隊長大石正行中佐の配下にあって、久松、上園という地区隊長を率いていたにも関わらず、大石中佐や久松大尉がシンガポール華僑虐殺事件の被告人になっているのに、当該事件の被告になっていない。

辻参謀は、戦後アメリカ占領軍に取り入って戦犯にならず、1950年(昭和25年)には参議院議員となった。しかし、ラオスで宿舎をでたきり、行方不明となり、自分の罪を償うためにジャングルに消えたとも言われているが、辻参謀の罪が消える訳でもないだろう。

私の親族がその虐殺に直接関わった訳ではないが、「処刑」された人々が埋められた場所の近くを夜通ると、うめき声が聞こえたそうだ。心霊現象のような話であるが、あるいは息を吹き返した人がいたのかもしれない。
シンガポール華僑の「処刑」と称した虐殺は、現にあった事実であり、私の身近にもそれを見聞した旧陸軍軍人がいる。

南京大虐殺についても、既に種々の証言がなされ、階行社の出版物でも認める記述があるのに、頑迷にも否定する人々がいる。しかし、それは決まって現場にいなかった人物である。もはや旧日本軍関係者も高齢となり、直接の体験者が口をつぐんで既に他界しているような昨今であるから、それを良いことに大嘘をついているわけだ。

あることをないというなら、反証を出さねばならないだろう。実際に見聞した者が存命なのに、それを否定するというのは、一体どんな頭脳構造なのか、不思議でならない。

「観光コースでないマレーシア・シンガポール」という本がある。著者は陸培春(ル・ペイチュン)という(略歴:1947年、クアラルンプールに生まれる。1973年、留学生として来日。東京外国語大学卒業。1978年、シンガポール『星洲日報』(現『聯合早報』)初代東京特派員となり、現在『聯合早報』の在日コラムニスト、駒沢大学マスコミ研究所講師として活躍中。連載コラム『日本漫歩』で第一回ラジオたんぱアジア賞特別賞受賞。83年、90年、マレーシア福聯会ルポルタージュ部門優秀賞受賞。)

この本のなかで、「日本軍に連れ去られた祖父」という一文がある。これはシンガポール華僑虐殺の記憶をつづったものだ。

「幼いころ、母の実家へよく遊びに行った。写真館で撮った楕円形の大きな祖父の写真が飾ってあった。祖父は野菜行商人だったが、ひまな時は自転車でクズ鉄を回収して生計を立てていた。

 十数年前、教科書の歴史改さん問題が起きてから、帰省する機会があった。その時、祖父の「顔」をもう一度しっかりと見てみようと思った。そしてその写真を自分のカメラにもおさめて、身辺に置くことにした。唯一の貴重な記念品だからだ。

 祖父がその写真を撮ったのは四十代半ばだったという。私もすでに四十を過ぎ、五十歳となった。気持ちがとても複雑になった。

 祖父は日本軍に連れて行かれた。そしてそのまま二度と帰ってこなかった。殺されたのに違いない。

 当時、華僑のリーダーやインテリだけでなく、庶民やヤクザまで日本軍に「敵性分子」だと見なされ、虐殺された。

 一家の大黒柱の祖父が連れて行かれたあと、長女である私の母は、病弱の祖母、四人の幼い弟たちとともに残された。生活がとても苦しいので、三番目の弟を人にあずけてしまった。

「天皇の軍隊」が来なかったら、そんなひどい目にはあわなかっただろう。

 だが、正直なことを言えば、日本軍の非人道の殺戮に遭遇した私たちは、出来ればそのいやな思い出を自分の脳裏から追放し、未来に向けて楽しく幸せに生きたいと思っていた。肉親や近親の死をいつまでも思っていると、人生が暗くなってしまうどころか、生きていく勇気と気力も萎えてくるからだ。(略)」

これが真実なのである。身内を殺された人の恨みは、政府高官が何と弁解しようが、やすやすと消えるものではない。

(付記)
シンガポール華僑虐殺事件については、現在資料を整理し、シンガポール各地区の憲兵隊の役割や具体的な虐殺証言についてまとめている。また後日、記事をアップする。反動勢力、右翼ゴロツキがどうしようが、俺は一歩も退かない。

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2007/10/08 13:31 | Comments(0) | TrackBack() | 国際特集

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