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2025/06/21 13:11 |
天皇陛下の馬鹿野郎
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合軍に対して無条件降伏し、陸海軍の将兵は悉く武装解除され、わが海軍も解体することとなった。私のいた関西のある航空隊でも、軍艦旗降下、奉焼があり、分隊士からは軽挙妄動は厳に慎み、決して腹を切ったりするなと言い渡された。しかし、近くの航空隊では少尉候補生が割腹自殺したとの話があり、若い士官で山に立て籠もる、徹底抗戦するとか物騒なことを言っていたものもいた。8月下旬にようやく一段落し、一部の士官・下士官のみ残務整理で残ることとなり、その他の隊員には復員命令が下った。私も、わずかな荷物をもって、最寄駅まで歩く道すがら、顔見知りの衛生兵と出会ったが、別れの挨拶をすると「森兵曹もお元気で」と彼はペコリと頭を下げた。こうして悄悄として復員すれば、故郷を目前とした乗換駅で、鬱屈した無念さとどの面下げて帰ることができるかという思いから、汽車がホームに入ってきてもベンチから立つことが出来ず、親切な駅員さんに促されて、ようやく長らく帰っていなかった故郷への帰途についた。

日本は負けた。それは軍国少年であった私には、余り考えて見なかった事態であった。日本は負けたのに、故郷の駅も、山や川も何も変わらないように見える。しかし、出征の時の見送りの騒ぎに比べ、私を待っていたのは父母と兄などの家族のみであった。在郷軍人であった兄は、私が出征中に嫁をもらい、その義姉とは初対面であった。兄は「占領軍に取り上げられる」といって軍刀を油紙に巻いて山に隠し、これからの生活をどうするかとしきりに言っていた。
友人たちも、ちりぢりになっていた。同じ村の出身で、中学で秀才の誉れの高かった先輩は、陸軍の見習士官として南方で戦死したとのことであった。

一番ショックであったのは、母方の従兄が中支で戦死していたことである。従兄のいた東部軍三十八部隊は中支を転戦していたのだが、従兄が戦死した場所は、中華民国浙江省湯渓県にある洋東橋という橋のたもとであったことを、母から教えられた。それがどんな戦闘であったのか、私は知らない。国民党軍か、八路軍か、相手も分からないが、中国兵との戦闘で戦死したことだけは間違いない。1943年(昭和18年)には既になくなって、戦死の公報も来ていたのだが、私の訓練のさわりになると、わざと知らせなかったのだという。この従兄とは、年が近かったこともあり、子供の頃よく遊んだ。しばらくして、従兄の墓に線香を供えにいった。

「故陸軍歩兵伍長 ・・・」と位階勲等と従兄の名が刻まれた、先祖代々の墓よりも大きい、角錐型の墓標が建っていた。その墓に線香を供えると、ふと出征前にみせた従兄の淋しそうな表情や子供の頃トンボを捕まえて笑っている顔などが瞼に浮かんできた。墓碑には「何月何日神戸港から出航して中国へ上陸、各地を転戦、何月何日浙江省湯渓県洋東橋橋頭にて壮絶な戦死を遂げる云々」と書かれていたが、従兄は戦争に行きたいとは思っていなかったのであろう。従兄ともう一人の応召兵の壮行会では、そのもう一人の兵隊は威勢がよかったが、従兄は対照的に元気がなかった。恋人がいたのか、とにかく未練を残した出征であったと思う。日本は、中国を侵略した。それはいかなる大義名分もない。優しかった従兄も、行きたくない戦争に行き、戦いたくない相手と戦って、侵略軍の「東洋鬼」の一人として中国兵に討たれたのである。
「天皇陛下の馬鹿野郎」と言いながら、その墓前に突っ伏して私は泣いた。

それから、まもなく私は上京した。
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2007/10/08 00:41 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
オランダ人「従軍慰安婦」の悲惨
去る2月15日、米下院の公聴会で証言したオランダ人元慰安婦、ジャン・ラフ・オヘルンさん(84)の証言の日本語訳が下記ブログにあるというので、早速みてみた。
ます。

「『日本人を許す、しかし決して忘れない』『安部首相は公式謝罪を』 オランダ人『従軍慰安婦』、米下院公聴会で証言」
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2007/02/for_the_record_c3ca.html

以下、長々と引用。

■ オランダ人元「従軍慰安婦」 ジャン・ラフ・オヘルンさん(84歳)の証言
 
 ファレオマベエンガ議長、そして小委員会の委員の皆さん:
 
 「従軍慰安婦」の悲惨さに関する、こうした公聴会を開いていただき感謝申し上げます。(略)

 ひとりの女性としての戦時中のわたしの体験は、人間としての尊厳を完璧に踏みにじるものであり、恥辱であり、耐えがたい苦痛であります。第2次大戦中、わたしは日本軍の、いわゆる「従軍慰安婦」になることを強制させられました。「従軍慰安婦」とは、性の奴隷をごまかした呼び名であります。

 わたしは1923年に、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のジャワで、オランダ人入植一家の第4世代として生まれました。わたしはサトウキビの農園で育ち、最も素晴らしい少女時代を過ごしました。わたしはカトリックの学校で教育を受け、ジャワのセマランにあったフランシスコ派の教員大学を卒業しました。

 わたしが19歳だった1942年に、日本軍がジャワに侵攻して来ました。わたしはそれから3年半、数千人の(オランダ人)婦女子とともに、日本の駐屯地刑務所(prison camp)に閉じ込められたのです。日本の駐屯地刑務所でオランダ人女性たちの受けた恐怖、残虐行為、苦痛、飢餓に関しては多くの証言が語られています。しかし、ひとつの物語だけは決して語られることはありませんでした。第2次大戦中、日本人によって行われた最も恥ずべき人権侵害の物語:すなわち「従軍慰安婦(Comfort Women)」、ジュウグン・イアンフ(jugun ianfu)の物語がそれです。これらの女性たちがどのようにして、自分の意志に反し強制的に身柄を拘束され、日本帝国の軍隊のために性的サービスを強制されたかの物語です。

 わたしが駐屯地刑務所で拘束されて2年が経った1944年のことです。日本軍の高官たちが駐屯地にやって来ました。そしてこう命令しました。17歳以上のすべての独身女性は、駐屯地内に整列しろ、というのです。将校たちはわたしたちに向かって歩いて来ました。選別作業が始まったのです。彼らはわたしたちの列を行ったり来たりしながら、上から下までじろじろ見ました。わたしたちのからだや脚を見たり、指でわたしたちのあごを引き上げたりしました。そして10人を選び出したのです。そのなかにわたしも含まれていました。わたしたちは連行されたときと同様、小さなバッグひとつで、来るよう命令されました。駐屯地で拘束されていた全員が抗議しました。わたしたちの母親たちはわたしたちを取り戻そうと懸命でした。わたしは再会がかなうものかも知らず、母親と抱き合いました。わたしたちは軍用トラックに放り込まれました。わたしたちは恐ろしくて、バッグにしがみつき、互いに身を寄せ合いました。

 日本軍のトラックは、サマランの町の、オランダの植民者の大きな住宅の前でとまりました。車から降りろ、と命令されました。その家に入って、そこがどんな家なのかすぐに気づきました。日本の軍人のひとりがわたしたちに言いました。わたしたちは日本人に対して性的な楽しみを与えるためにここにいるのだと。その家は売春宿でした。

 わたしたちは声をあげて抗議しました。わたしたちは、自分たちの意志に反して無理矢理、ここに連れて来られたと言いました。彼らには、それをわたしたちにする権利はないことを言いました。それはジュネーブ条約に違反することであるとも言いました。しかし、彼らはわたしたちをあざ笑い、わたしたちを自分の思い通りにできるんだと言いました。わたしたちは日本人の名前をつけられ、ベッドルームのドアのところへ張り出されました。

 わたしたちはとても純潔な世代でした。わたしはセックスのことは何も知りませんでした。その売春宿の「オープニング・ナイト」の恐ろしい思い出は、わたしの人生のすべてを通し、わたしの心を拷問にかけて来たのです。わたしたちは食堂(ダイニング・ルーム)に行くよう命じられました。家中、日本軍の軍人だらけなのを見て、わたしたちは恐怖で身を寄せ合いました。わたしは祈祷書を取り出し、わたしたちを助けてくださいと、少女たちと一緒に祈りを捧げました。彼らはわたしたちを引きずり出し始めました。ひとり、またひとりと。ベッドルームから悲鳴が聞こえて来ました。わたしは食卓の下に隠れましたが、すぐ見つかってしまいました。わたしはその男と闘いました。力を振り絞ってキックしました。その日本軍将校は、わたしがすすんで自分を差し出さないことに、ものすごく腹を立てました。鞘から刀を抜いて、わたしに突きつけました。わたしを刀で脅し、わたしが言うことを聞かないなら殺すと言いました。わたしは部屋の隅で、もう逃げることのできない狩りで追い詰められた動物のように、からだを縮こませました。わたしは死ぬことを恐れていないことを彼に理解させました。わたしはすこしお祈りさせてくれるよう哀願しました。わたしが祈っている間、彼はわたしの服を脱がせ始めました。彼はわたしを殺す気はなかったのです。わたしに死なれてはよくなかったのです。

 それから彼はわたしをベッドに放り投げ、わたしの服を引き裂きました。かれは、ネズミをつかまえた猫のように、はだかのわたしの体の上に刀を走らせました。わたしはなお戦おうとしました。しかし、彼はわたしの上に乗って来て、わたしを重いからだで釘付けにしました。かれはわたしを最も残酷なしかたでレイプしました。わたしの顔を涙が伝いました。わたしは彼はいつまでもわたしを犯し続けると思いました。

 彼がようやく部屋を出ていくと、わたしのからだは震え上がりました。服をかき集め、バスルームに逃げ込みました。そこでわたしは、数人の少女と会いました。わたしたちはみんなで泣きました。わたしたちは完全にショック状態でした。バスルームでわたしは、わたしのからだから汚れと恥辱を洗い去ろうと懸命になりました。とにかく、洗い去ってしまおう。しかし、夜は終わっていませでした。ほかの日本人たちが待っていたのです。夜通し続きました。しかし、それは始まりに過ぎませんでした。来る週も来る週も、来る月の来る月も。(略)

 日本人は誰ひとりとして、わたしの抵抗を受けずにわたしをレイプできませんでした。わたしは全員と闘いました。そのため、わたしは繰り返し殴打されました。いわゆる「慰安所(Comfort Station)」でわたしは日夜、組織的な殴打とレイプを受けていたのです。わたしたちの性病を検査に来る日本人の軍医たちも、毎回かならずわたしをレイプしました。それどころかわたしたちをさらに辱めるため、検査の最中、ドアを開け放しにして、検査されているわたしたちの姿を日本人たちに見せたのです。

 「慰安所」にいる間、日本人たちはわたしを弄び、辱めました。わたしは引き裂かれ、バラバラにされたからだで、放置されていました。日本の兵士たちは、わたしの若い命を台無しにしたのです。わたしの全てを奪い去りました。わたしの若さを、わたしの尊厳を、わたしの自由を、わたしの所有物を、わたしの家族を奪い去ったのです。しかし、ひとつだけ、かれらが奪う去ることのできないものがありました。それはわたしの信仰と神への愛でした。これだけはわたしのものであって、だれもわたしから奪い去ることはできない。わたしが、日本人がわたしにした全てのことを生き延びることができたのは、深い信仰があったからです。

 わたしは日本人たちがわたしにしたことについて、彼らを許しています。しかし、わたしは決して忘れることができないのです(I have forgiven the Japanese for what they did to me, but I can never forget.)。50年間、「慰安婦」たちは沈黙を守り続けて来ました。彼女たちは汚辱にまみれた、恐ろしい恥辱を生きたのです。こうした女性たちの台無しにされた人生が人道問題となるのに、50年という歳月がかかったのです。(略)

 わたしは過去15年にわたって、オーストラリアや諸外国で生きる「従軍慰安婦」たちの悲惨や、戦火のなかにある女性たちのため、倦むことなく活動して参りました。いまや、時間は限られています。60年後のいまこそ、「従軍慰安婦」に正義は与えられるべきであります。「従軍慰安婦」たちは、日本政府から、安部晋三首相自身から公式の謝罪を受けるに価いするものであります。日本政府はその戦争犯罪に対して全責任を引き受けなければなりません。

 1995年、犠牲者に補償するため「アジア女性基金」がつくられました。この基金は、「従軍慰安婦」に対する侮辱であります。(略)

 わたしは、公の場でお話することで、世界の平和と和解に貢献することができるとともに、女性に対する人権侵害が二度と起こらないことを望むものであります。

 ありがとうございました。

以上、引用終わり。

このように、「わたしは日本人たちがわたしにしたことについて、彼らを許しています。しかし、わたしは決して忘れることができないのです(I have forgiven the Japanese for what they did to me, but I can never forget.)。」とこのオランダ人女性は言っているが、そもそもこのような証言は本人の生活や家庭などを思えば、そうそうできるものではない。しかし、証言は次々と出てきている。

安倍首相は、従軍慰安婦の強制連行とか、軍による強制、直接関与はなかったという。しかし、このオランダ人女性の証言は軍による強制であり、直接関与であり、何より軍人にあるまじき非道な行為を多くの軍人が行っていたことの証拠である。同種の証言はフィリピンでもあるが、日本政府はこうした声に耳を塞ぎ、調べたがそんな事実はなかった、皇軍のやることに間違いはないとでも言うつもりであろうか。

文書による証拠は、軍がP屋と呼ばれていた斡旋業者に対して、軍の威信を利用した強制、だまし連行といった行き過ぎを防止させようにした文書が残っておる。
「受領番号 陸軍省受領 陸支密受第二一九七号 起元庁(課名)
兵務課
件名 軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
兵甲第一八号 昭和十三年三月四日
陸支密

副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞 アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法誘拐ニ類シ警察当 局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少カラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其 実施ニ当タリテ関係地方ノ憲兵及
警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上*社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」

これをもって、軍の直接関与がなかったとする右翼の噴飯ものの言説があるが、こういう文書を出さざるをえないほど、「従軍慰安婦」の募集については悪質な事例が後をたたなかった。
そもそも、「従軍慰安婦」などというのが、なぜ必要か。

2007/10/08 00:39 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
総員起こし五分前

日本海軍ほど、やたらに鉄拳を振るった軍隊はないであろう。こちとら一介の飛行兵、せいぜい特務士官コースの雑種ゆえに、兵学校などでどうしていたかは知らんが、やはり海軍の学校なら同じであろう。
規則正しい生活といえば、そうなのだが、例えば衣服を綺麗にたたんで就寝すれば良し。もし、そうでなければ、容赦なく海軍名物で崩されるのである(XXにその隊などの名前をいれてXX地震とかいう)。
起床するにもデレデレしていたのでは駄目である。
そしていきなり「総員起し」ではない。「総員起し五分前」というのがある。号令がひとたび下れば、すぐに起きて着替えるのだが、五分前でその心得ができていなければならない。五分前で、さあ次は総員起しだという間合いにはかっているというべきか。そして、起きた時点で、眠気をこらえて、目をこすっていては駄目である。この五分前というのは、起床時間に限らない。何でも五分前、集合するのでも何でも。その規律が守れないと、罰直が待っている。これがただの鉄拳であればまだいいかもしれない。それが文字通り、バッターというトンでもないものが待っている。
尻をバッターでやられると、風呂にも入れないし、とにかく座るにも一苦労。あんな生活で、よく体がもったものである。
最近、ネット右翼というヘナチョコ野郎が、インターネットの世界にいるが、戦争も軍隊も知らない、アプレゲールというより、その父親も戦争を知らないくらいの子供らしい。彼らは物は知らないし、まあコンナ海軍方式の生活など、とても出来ないような連中なんだろう。
勿論、コンナ生活知らないほうが良いに決まっている。全てが、綺麗に、短時間で、というのが要求されるのだからたまらない。といっても、ハッタリと要領はある程度効いたかな。


2007/10/08 00:22 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某

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