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2025/06/21 06:22 |
パラグアイで誘拐された日本人は、淫祠邪教「統一協会」幹部
読売新聞のニュースによれば、パラグアイで誘拐された日本人太田洪量は、淫祠邪教(早い話がカルトである)、「統一協会」の関係者らしいとのことであるが、この太田洪量というのは、かつて全国の原理研の会長をしていた、「統一協会」の大幹部である。誘拐されたのには同情するが、そもそも最高学府を出ていながら、反社会的な活動をおこなって、親を泣かせ、つまらない人生を送った大馬鹿者である。

以下、読売新聞のHPより引用。
「【サンパウロ=中島慎一郎】南米パラグアイの国家警察当局が2日明らかにしたところによると、同国南東部のカアグアス県で1日午後(日本時間2日未明)、現地の土地管理会社『ビクトリア』社長で現地在留邦人の太田洪量(ひろかず)さん(62)と秘書の山口佐和子さん(37)ら計4人が、武装集団に誘拐された。

 犯行グループはビクトリア社に身代金15万ドル(約1800万円)を要求している。

 国家警察によると、犯人らは自動小銃で武装し、軍の検問を装って太田さんらの乗った乗用車をとめ、2人を誘拐した。一緒に誘拐された別の2人は、車で現場を通りがかったパラグアイ人の警察官とその恋人で、携帯電話で事件を通報した後、連れ去られたという。

 太田さんら2人は、カアグアス県に土地を見に行った後、首都アスンシオンに戻る途中だったという。また、同県近くで開かれた集会に参加した帰りだったとの情報もある。

 犯人らは、アスンシオン郊外でワゴン車を乗り捨て逃走。犯行に使われたワゴン車は以前、別の誘拐事件でも使われたものとみられ、警察で関連を調べている。

 『ビクトリア』は世界基督教統一神霊協会(統一教会)の関連会社とされ、統一教会などが現地に所有する土地を管理している。」

 この「統一協会」はキリスト教とは何の関係もない。反社会的な行動が、問題視されている団体であり、最近では「統一協会」から派生した「摂理」という団体の「教祖」が強姦などの容疑で指名手配されている。実際、「統一協会」の「教祖」文鮮明もまた、韓国で梨花女子大事件などを起し、「血分け」というセックスで教義を伝授するという特異な布教で、大きな社会問題となった。これが日本に上陸したのは1958年6月。韓国の西川勝{韓国名は崔翔翼(チェ・サンイク、または崔奉春(チェ・ボンチュン))1985年に脱会}が宣教のために、国交のない日本に密入国。不法入国で逮捕された後、逃亡した西川は各地を転々と逃げ回った。全国モーターボート競走会連合会(後の日本船舶振興会)の会長(笹川良一が密入国で逮捕された西川の身元引受人を買って出た。「統一協会」は韓国でいろいろ事件を起したために、権力に早くから迎合し、「反共」より強烈な「勝共」を標榜するようになる一方、日本やアメリカにも進出するようになった。そして1959年10月2日には東京都新宿区にあった「雄鶏舎」という時計店の2階の部屋で、西川勝が2名の参加者に対し日本で最初の礼拝を行い、ここに日本にも「統一協会」の邪教が根付くことになった。

その後、どういうわけか(安保対策で反共色を強化するためともいわれるが)立正佼成会の庭野日敬会長が、立正佼成会会員を「統一協会」の修練会に出してから、一部有力会員が「統一協会」に走ることになり、組織的な基盤ができて活動が本格化。以来、「親泣かせ原理運動」とマスコミにも取り上げられたが、自民党の岸信介ら反動勢力と結びつきを深めた結果、自民党議員の秘書として「統一協会」員が送り込まれ、日本の保守勢力のもっとも腐った部分に隠然たる勢力をもつにいたる。

最近では、あまりマスコミにも出なくなったが、桜田淳子も参加した集団結婚式や脱会したスポーツ選手の結婚相手の話題など、一時は相当にマスコミにも取り上げられたこともある。また、この「統一協会」の経済活動として、いわゆる霊感商法で、ツボや印鑑など、原価は二束三文のものを高い値段で売りつけるのが、大きな問題になった。昔は、銀座あたりで酔客相手に花売りをしていたが、そんな収入では「教祖」文鮮明が納得しなくなったのであろう。あるいは、ジンセンアップなどという清涼飲料水?を売ってみたり、以前は渋谷に「世界日報」という大看板を出していたが、みな「統一協会」の「事業」である。
今回の誘拐された太田らも、パラグアイくんだりで何の土地を探していたのか。

そして、信じがたいが何故か北朝鮮に「統一協会」の集金した金が流れているらしい。本来、「統一協会」は国際勝共連合という反共右翼(しかも韓国産)とコインの裏表の関係にあるが、その敵視していたはずの相手、金日成や金正日と手を結んだのだから訳が分からない。

実は、安倍晋三首相が爺さんの岸信介以来か知らんが、「統一協会」と深い結びつきをもっている。一国の首相がカルト教団と関係があるというのは、いかがなものか。いくら反共で利用したい意図があるにせよ、反社会的な団体と深い関係のある首相は、即刻退陣してもらいたい。
今回の誘拐も、どうせロクな話ではないのだろう。仲間割れかなにかで、ヤクザと一緒だ。

カルト安倍よ、お前のような人間が日本の首相とは、断じて天が許さない。

*付記:2007年4月5日現在
毎日新聞によれば、「南米パラグアイの有力紙ABCコロルは5日、統一教会の太田洪量さん(62)と山口佐和子さん(37)ら4人が誘拐された事件で犯人側との交渉が難航していると報じた。犯人側は身代金要求を75万ドル(約8900万円)にまで増額したとされているが、同紙によると、太田さん側は35万ドルの支払いを提示したという」。身代金も2万5千ドルから15万ドル、50万ドル、75万ドルと吊り上げられている。それは太田洪量の身元が日本人で会社社長と分かったため、どんどん吊り上げでいるのだと思われる。カルト安倍晋三が大切にしているカルト集団の幹部の誘拐だけあって、日本政府も大騒ぎしている。イラクでゲリラに拘束された香田証生君の時の冷たい処遇とは、うってかわってである。それだけに犯人グループもこれはガッポリいただけると思ったのであろう。
また主犯は元警察官の脱走犯であるという。
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2007/10/08 11:47 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
慰安所と遊郭を混同している馬鹿ども
毎日新聞より、長々と引用。台湾トップアイドルが歴史認識の薄さを指摘され、北京で謝罪会見の記事。日本政府の誰かさん、すなわち安倍首相と取り巻き連中にも、深く反省してもらいたいものだ。
まったく慰安婦問題も解決できず、国際的にも大きな不協和音が起きているのに、「強制はなかった」と馬鹿げた弁明を繰り返す馬鹿ども。全く万死に値する。謝罪した台湾アイドルの爪の垢でも煎じて飲むべし。

<中国>台湾トップアイドルが抗日戦争巡るテレビ発言を謝罪
4月7日13時11分配信 毎日新聞

 「【台北・庄司哲也】台湾の人気アイドル、楊丞琳(レイニー・ヤン)さん(22)が、抗日戦争を巡るテレビ発言で歴史認識問題に巻き込まれ、中国で謝罪会見を行った。4年前に台湾のバラエティー番組で抗日戦争の期間を問われ、答えを間違い、中国のインターネットサイトで批判が起きたためだ。台湾の歌手やタレントは中国大陸にも数多く進出しており、政治的な問題に巻き込まれる例も少なくない。
 楊さんは台湾のトップアイドル。番組の中で抗日戦争の期間を聞かれ『11年』と誤って回答したところ、司会者から『8年』と間違いを指摘され、『たった8年だけ』と思わず答えてしまった。発言は中国大陸にも伝わり、『抗日の歴史すら知らない』『お前は日本人か』との非難の渦に巻き込まれた。
 『哈日族(日本大好き族)』のアイドルとして売り出し、人気を集めていた楊さんは、日中間の歴史認識問題に足をすくわれた格好だ。
 楊さんは今月3日に北京で記者会見を行い、4年前の発言について『私があまり歴史を知らないために誤解を招いてしまいました。許してください。これからも歴史の勉強に励みます』などと謝罪。中国側の司会者から『中国人民の抗日戦争での奮起』というタイトルの本を手渡された。」

慰安婦が強制連行されていないとすれば、南方のジャングルにまで慰安婦がいたのはなぜ?
軍のトラックでみんな運んだんでっせ。誰が、好き好んで南方の密林まで行きますかいな。
強制連行は慰安婦だけでない、軍夫も同様。彼らは人間扱いされず、牛や馬と同じように徴発されたのだ。

例えば、陸軍西部第二部隊(広島師団歩兵第11連隊の留守部隊)の歩兵砲中隊に所属した山本忠氏が1979年に書いた「仏印進駐」という手記には、以下のようにある。
「この時期は7月という雨季であり、蒋介石軍がしばしば出没するということで、夜行軍となることが多く、食事のお菜は冬顔を牛缶で味付けしたものばかりで、我々の多くは下痢に悩まされ、マラリアで落伍する者もあった。こんなことがあったかと思うと、我々の行軍の途中にたった一度であるが、慰安婦と布団を山ほど満載した陸軍の自動車部隊のトラックが通過して、みんなが歓声を上げたこともあった。」

慰安婦が嘘をついているとすれば、日本人も韓国人も中国人もフィリピン人もオランダ人も皆嘘つきで、正直なことを言ったのは一人もいないということになる。そんな馬鹿なことがあるはずないではないか。

そもそも、慰安婦問題がどうのこうのと言っている連中は、実体験として戦争も軍隊も知らないのではないか。太平洋戦争どころか、第五福竜丸の被爆や横須賀エンプラ寄航といった事件すら知らないのかもしれない。 無知より怖いものはない。そんな人に、あの時はこうだったでしょと言ってもチンプンカンプンなのだろう。慰安婦強制、あるいは「だまし」による連行、慰安婦化を否定する輩は、慰安所と遊郭は全然違うのに一緒にしているように聞こえる。
軍隊の駐屯している周りには、遊郭や芸者が出入する料理屋などが決まってあった。これは奈良県でもおなじであった。さすがに紅顔可憐な少年兵では、そういうところに出入するものは少なかったが、小生の身近にも外出で遊郭に行く猛者?もいた。
外地でも、そういう類の場所は、台湾、朝鮮という植民地以外にも、日本軍の影響下にあった場所にはあった。そこで働く女性は、例えば地方の貧しい村出身で身売りされてきた人も少なからずおり、それはそれで人権上問題なのだが、慰安婦の場合には自ら進んで慰安婦になったケースは殆どない。

そもそも、慰安所は遊郭のような場所ではない。それは内地の軍隊駐屯地のまわりにもあったし、外地にもあった。ただし、台湾には新竹にあっただけだったようだ。とにかく「従軍慰安婦」と言われたように、慰安所は軍隊がいく先々にあった。それは普通、「P屋」といっていたが、Pは「パンパン」の略であろうか、建物もバラック、慰安婦は一日に二十人もの兵隊を相手にするので、ただマグロのように寝ているだけ。遊郭の遊女と客との間であったような、ロマンスは一切なしの、ただ兵士の性欲を処理するだけの殺伐とした場所である。もちろん、遊郭も良くないのであるが、慰安所はそれほどひどかった。

彼女たちが慰安婦になったのも、大抵の場合は工場で働くとか、料理屋などで接客するというように、だまされた場合が殆どであって、中国、フィリピン、インドネシアで頻々としておこったように軍・兵士による強制連行もままあった。
日本人慰安婦の証言がないとか、馬鹿なことを言う奴もいるが、ほんとに彼らは無知蒙昧である。証言どころか、国会への陳情とかで何度も問題になり、その都度ニュースになっているではないか。
最近は、慰安婦をしていた人たちも高齢化し、多分身体もボロボロにされてしまった人が多かったろうから、もう死んでしまった人が多いのである。なにせ、もう終戦後61年もたっている。当時、25歳だった人が86歳、そうでなくても政府は知らぬ存ぜぬを通して補償もなし、それで証言すれば「恥をさらす」と思っている人が多いなかで、ようよう証言できますかいな。

以下、一番古いと思われる、1948年(昭和23年)11月27日の国会法務委員会(売春等処罰法案に関する陳情書関連)での日本人慰安婦の証言を引用、「歴史認識の薄い」人はよく読まれたし。
「○村專門員 陳情者は大阪府接待婦組合連合会会長松井リウであります。私たち就業婦の中には、戰爭中白衣の天使として第一線に從軍し満洲、中支、南支、南方各地域において、また軍の慰安婦として働きおり引揚げたる者、その他夫が戰死し子を持つ者、元ダンサー、女給、看護婦、女店員、女工等と諸種の前職を持つておる者ばかりで、いずれの職域においても、現在の接待婦以上のことをいたさねば生活ができず、その上他の方面においては衞生設備は不十分なるため、健康上おもしろくなく、不幸にして病氣にかかりましたら、一般の開業医にかかりますと藥價、治療費が高くかかり、いくらくふうして働いても医者の奉公をしておるようなもので、治療はおろか生活もろくにできず、衣類等を賣り盡くして現在の職業に入つて來ている者が少くないのであります。戰いに負けたとはいいながら、民主平和國家を建設して一日も早く世界の仲間入りをするためには、今度のような法律ができることは、理想からいえば当然とは思いますが、このごろの世相よりしまして、さきに申し上げました通り、職業婦人として働いている婦人の中には、皆さんがお考えになつておられるような、給料だけで生活しておられる方はほとんどないといつても過言でないと思います。
 (略)職業婦人の一部のうち、特に近親のめんどうを見る一定の期間働くためには、どうしてもこうした職域が必要と思います。少くとも経済界が安定して生活苦が少くなり、一般職業婦人が給料にて生活ができ、その上服の一着もくつの一足も買うことができ得るようになり、他面青年男女が一定年令に達したなれば、結婚して主人の收入にて生活ができるよう、また全國民が衞生思想が発達し、性教育が今少し普及され、すべての点につき世界の水平線まで進み、自他ともに認められる時期まで、今度の法律が出ぬようにしていただきたいと思います。」

 なお、この陳情にたいする政府側の答弁は、田中角栄がおこなった。
「○田中(角)政府委員 ただいまの陳情に対してお答えいたします。陳情の趣旨は十分了承しました。このような業務に從事する婦人の中には、種々事情のあることも十分承知いたしておりますが、しかし戰後著しく増加して参つたこの種行為は、健全な性道徳を破壞し、善良な風俗をみだし、のみならず恐るべき性病を蔓延せしめるもととなるものでありますから、政府としましてはかかる行為の絶滅をはかることを必要と考え、その一つの方策として、第二回國会にも賣春等処罰法案を提出したのであり、あれは審議未了に終りましたが、近く、さらに同様の法案を國会に提出する準備をいたしておるのであります。われわれとしましては種々研究の結果、現在の事態に対処するためには、このような法案がぜひ必要であるとの結論に到達いたしているのでありますが、國会提出の上は、國会において十分愼重な審議が加えられることを望んでいるものであります。」
なんか少し官僚的な答弁ながら、「種々事情のあることも十分承知いたしておりますが」というところが田中角栄らしいかもしれない。

カルト安倍よ、いい加減、事実を率直に認め、反省すべきは反省し、正々堂々としなければ、国際的に相手にされなくなる。でなければ、即刻退陣せよ。日本の国益も守れず、国内外で嘘八百言っていても仕方なかろう。


2007/10/08 11:46 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
陸軍南支気象隊福島中隊長の「戦死」
海軍気球



先日、南支気象隊戦友会の幹事をされていた元下士官氏のご遺族から、戦争体験文集を頂いた。

それによると、戦争末期の1944年(昭和19年)秋に、その事件は起きた。戦友の話を総合すると、以下のようになる。

南支気象隊隼9880部隊の大隊長井上少佐は日ごろからよく兵を叱り付ける部隊長であった。南支気象隊が第四気象連隊第三大隊となったのは、1943年(昭和18年)4月頃で、大隊長が井上少佐にかわった。それまでの武少佐の転出から井上少佐の着任まで、少し期間があき、その間広田大尉が大隊長代理であった。井上少佐が着任すると、それまでののんびりムードが一転して処罰の連続の暗黒時代となった。兵を叱り付ける上官など、旧日本陸軍には五万といたものであるが、井上少佐の場合は尋常ではなかった。それで兵たちはいつもビクビクしながら、暮らしていた。
ある人は以下のように、回想している。

初年兵は、広東在住の諸部隊に朝一番の天気図配布という任務があったが、営門を出てから帰隊するまでの早回り競争をさせられていた。ある日、いつものように自動車で石門近くまで走り寄った時、運悪くドアに損傷を与えた。その損傷を帰って報告したところ、自動車班の班長が、たいした傷ではないが、部隊長に見つかるとまずいといって自動車を隠してくれた。しかし、それも見つかって、「天皇陛下からお預りした大切な兵器を壊した」と怒鳴り付けられた。そして自動車手は、重営倉送りの羽目になった。
これはほんの一例で、態度が悪いといって、下士官から一等兵に降等させられたり、重営倉送りは日常茶飯事であった。

ある時、早朝配布の天気図が出来上がったので、見習士官が部隊長に検印をもらいに行ったところ、部隊長井上少佐の所在が不明であったため、印なしで兵に渡し、配布にまわらせた。このことで見習士官は井上部隊長に叱責をうけ、即日一等兵に降等させられ、見習士官が属していた第五中隊の中隊長福島大尉の責任を井上部隊長は追及した。ちなみに、この見習士官は、軍人になる前はプロ野球の南海ホークスの選手だった人であった。

1944年(昭和19年)7月1日、広東にも米軍機が飛来し、初めて空襲警報が出され、照明弾が落とされるや、50K爆弾が広東陸軍病院、陸軍気象隊、周辺の日本軍部隊陣地を目掛けて集中的に落とされた。そうこうするうちに、ある朝、兵が大隊本部の屋上から営内を見渡したところ、いつも少し窓があいてカーテンが見えている福島大尉の部屋の窓が閉まっていた。しばらく見守っていたが、窓は開かず、衛兵所に中隊長殿の部屋がおかしいと連絡、まもなく「中隊長殿がベットの上で拳銃自殺された」と大騒ぎとなる。

この中隊長福島大尉の自殺の直接の引き金となったのは、ある一等兵が従軍免脱を目的に右手首を三八式歩兵銃で撃ち、貫通銃創を自傷したことであると、衛兵司令であった、元兵長氏は戦争体験文集で書いている。
他にも前述の見習士官の降等問題など、積もり積もったものがあったのであろう。
この自殺した福島大尉の遺体の処置について、井上少佐は異常なまでに薄情な処置を命じたと、ある元兵隊は書いている。遺体の処置については別の人も噂があったと書いているので、非人道的な行為があったのでろう。
この福島大尉の自殺の直後、井上部隊長、田中少佐は更迭された。陸軍自体が事後処置を行うほど、福島大尉の自殺問題は陸軍南支気象隊に大きな波紋を投げかけた。

福島大尉は戦友会の名簿にも「昭和19年10月10日戦死」という扱いで掲載されているが、井上少佐の名前はなく、記事の中にも井上少佐をよく言うものは見当たらない(前任の武少佐については、兵が一緒に風呂にはいっても黙認して何も言わなかったり、大尉たちに「俺は軍人を辞めたら骨董屋になる」と言って談笑した記事などがあるのと対照的)。気象隊の将校、下士官兵から、この部隊長がどう見られていたかがよく分かる。

井上少佐のような軍人は、旧日本軍には少なからずいたことは事実である。これらの人々は兵を虫けらの如く扱っておきながら、すぐ「天皇陛下」を持ち出して「上官の命令は陛下の命令である」と自己を正当化し、自分自身の責任は回避しながら、生き延びた輩が多い。陸海軍の大元帥であった昭和天皇の戦争責任の追及も、日本の保守反動勢力と日本を半植民地化した米国の支配のための思惑により、結局のところ回避された。その昭和天皇を筆頭に、旧軍においては責任回避の連鎖が続いていたのである。

参考文献:「戦塵集」第3部 南支気象隊戦友会編(1990)

なお、写真は陸軍の観測用気球ではなく、海軍の1号型改4号飛行船(海軍が早くから飛行機を重視したのに対し、陸軍は気球の活用にこだわり続けた)。


2007/10/08 07:06 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
天網恢恢疎而不漏~「安倍首相の嘘」を裏付ける新史料
インドネシア女性
山陽新聞(2007年5月11日)によれば、やはり戦時中にインドネシアで慰安婦強制が行われていたことを裏付ける史料が発見された。それも、オランダから。天網恢恢疎而不漏(天網恢恢、疎にして漏らさず<老子>)とは、よく言ったものだ。安倍首相も、下村官房副長官も、「慰安婦の強制はなかった」と強弁していたが、大嘘であったことが白日にさらされた。政府首ノー(脳?、膿?)の虚言癖、「松岡の腐った水」とかは、もううんざりである。

「憲兵が連行、売春強制 慰安婦でオランダ新史料
【ベルリン11日共同】太平洋戦争時の従軍慰安婦問題で、日本占領下のインドネシアで憲兵らが直接、女性を連行して慰安所で売春を強制したことを記述したオランダ政府の公文書が10日までに見つかった。旧日本軍による『狭義の強制性』を否定した安倍晋三首相の発言の矛盾を裏付ける新史料として注目される。
 公文書は、戦争犯罪問題を調査しているベルリン在住ジャーナリストの梶村太一郎氏が入手した未公開の約30点。1944年にインドネシアのマゲランやフロレス島で起きた集団売春強要事件の被害者の宣誓証人尋問調書に記述されていた。マゲランの事件についてはオランダ政府報告書が『最も悪名高い事件』と指摘している。」

かねて、フィリピン、インドネシアなどでは、一般市民を連行して慰安婦にするという事案があり、その証言もされているが、政府公文書として、日本軍による一般市民への慰安婦強制が記述されているものが出てきたことは、山陽新聞が書いているように、安倍首相の発言が矛盾していることを証明するものである。

インドネシアでは、以下のように軍による市民の強制慰安婦化の事案があった。
(A)1943年3月、ジャワ島ブロラで20人のヨーロッパ人女性を日本軍が監禁・レイプしたケース
(B)1944年1月、抑留所からマゲランの慰安所に女性たちを暴力的に拉致したケース
(C)1944年2月、抑留所からスマランの慰安所に女性たちを暴力的に拉致したケース
(D)1944年4月、スマランで女性たちを逮捕し、スラバヤやフローレス島の慰安所に移送したケース

 なかでも(C)のケースは「スマラン慰安所事件」として知られており、バタビア臨時軍法会議で、現地日本軍部隊が抑留所にいる若い女性を暴力的に拉致して慰安所に入れたとして、当事者に死刑判決が下されている。「スマラン慰安所事件」は「白馬事件」(「白馬」とは「白人の女に乗る」ことから強制的に慰安婦としたヨーロッパ人の意、現地人を慰安婦に仕立てたのを「黒馬」といった)ともいい、南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性を連行して、少なくとも35名に売春を強制した事件。これは娘を強制的に連行されたオランダ人の抑留者リーダーが、陸軍省から捕虜調査に派遣された小田島薫大佐に訴えて発覚、その二ヶ月後国際世論を恐れた軍当局によって慰安所は閉鎖された。その事件当時の第一六軍幹部候補生隊長は能崎清次(当時少将、陸士24期)であったが、軍の目こぼしでおとがめなく、1945年に中将となって第百五十二師団長にまでなっている。事件後、監禁されていた女性が解放されただけで、能崎以外の犯人についても、陸軍刑法に違反しているにも関わらず、軍法会議にかけられることもなかった。これは軍法会議にかけることによって、陸軍のエリート部隊が起した事件を日本国民に明らかにすれば、国軍の威信に関わるとの思惑が働いたためである。他国の非戦闘員に対して死ぬより辛い屈辱を与えておいて、事件が発覚すると世間体がまずいともみ消ししたのだから、官僚とか警察などによくある身内に甘い体質は戦時中から続いていたのである。一般兵士が戦闘中に部隊から離脱した場合、敵前逃亡として平気で銃殺してきたくせに、軍幹部が強姦事件とかおこしてもお咎めなしとは、日本軍の体質がよく分かる。能崎清次は戦後オランダがおこなった軍事裁判で、売春強制罪、強姦罪などにより、求刑は死刑ながら12年の懲役刑に処せられている。

以下が、日本の名誉を地に落とした馬鹿どもと、その求刑、判決内容である。

スマラン慰安所事件の被告と判決

氏名    階級等    求刑   判決    罪名   役職ほか 
能崎清次  陸軍中将   死刑   懲役12年 bcd  幹部候補生隊長 
池田省三  陸軍大佐   死刑   懲役15年 abc 幹部候補生隊付 
岡田慶冶  陸軍少佐   死刑   死刑     abc  主な担当者 
河村千代松 陸軍少佐   懲役10年 懲役10年 ab    副官 
村上類蔵  軍医少佐   懲役10年 懲役7年  d      幹部候補生隊付 
中島四郎  軍医大尉   懲役20年 懲役16年 cd    幹部候補生隊付 
石田英一  陸軍大尉   懲役2年  懲役2年  d      幹部候補生隊付 
三橋弘   陸軍司政官  懲役5年  無罪          スマラン州庁  
古谷巌   軍属(業者) 死刑   懲役20年 b      スマラン倶楽部 
森本雪雄  軍属(業者) 懲役20年 懲役15年 b      日の丸倶楽部 
下田真治  軍属(業者) 懲役5年  懲役10年 b      青雲壮 
蔦木健次郎 軍属(業者) 懲役5年  懲役7年  b      将校倶楽部 

階級は終戦当時。役職ほかは事件当時のもの。
罪名の記号は、a:婦女子を強制売春に連行した罪、b:売春強制罪、c:強姦罪、d:抑留者を不当に扱った罪。

なお、事件の中心人物であった大久保朝雄大佐は、日本に帰国していたが、オランダ政府の追及を知り、戦後1947年に自殺。

このような軍規も国際法も道徳を守らない馬鹿どもを擁護し、日本の国際的な立場を危うくするばかりか、海外の無辜の市民を愚弄し傷つけているのが、安倍首相らである。自分のじいさんが戦争犯罪人であることが、よほど悔しいのか、普段は言っていることが不明瞭なのに、こうした話では実に饒舌に事実に反するデマを撒き散らしている。
日本政府は、オランダでもどこでも他国の政府文書が何か書いていようが、個別の話にはコメントしないのだそうだ。その割りに、安倍首相は個別に「慰安婦は嘘つきだ」と嘘をついているが。こういう卑怯未練な連中を見ていると、虫唾が走る。今度の参院選の争点は憲法改正で、自民党は憲法改正(実際は改悪)の裏スケジュールを作ったが、安倍首相は知らぬ存ぜぬと答弁している。何とか、葬り去る手段はないだろうか。

小生もとっくの昔に武装解除された身ではあるが、こうした悪党どもの策動を見ていると、射撃訓練で鍛えた腕がうずくというもの。おっと、これは失言、社会的に包囲せねば。

(写真はインドネシアの民族衣装を着た現地女性)

2007/10/08 07:00 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
刑務所くらい何だんねん

野間宏原作の「真空地帯」を山本薩夫が映画化した映画のワンシーンで、怠惰な初年兵をきつく罰したために、その初年兵が一時行方不明になったことをとがめられて営倉に入れられた一等兵に、インテリの三年兵曽田一等兵がコーヒーの差入れをするシーンがある。

「一つの怪物がヨーロッパをうろついている、――共産主義の怪物が。ヨーロッパのあらゆる権力は、この怪物を退治するために神聖なる同盟をむすんでいる・・・」
営倉に入れられた染一等兵は、牢のなかで毛布に包まいながら、ぶつぶつと言っていた。面会に来た三年兵の曽田は、驚いて制止し、「お前、それが何や知ってるのか」と聞くと、染一等兵は「共産党宣言でんがな」と言い、機械工をしていた兄貴に教わったのだと言う。お前の兄さん、今どうしているかという曽田の問いにたいして、「はいってまんがな、刑務所に」と答える染一等兵、そしてもう営倉にはいっているのだからどうってことはない、これ以上なら刑務所だっしゃろなという。驚く曽田に、染は「刑務所くらい何んだんねん」と言い放ち、「刑務所くらい何かという勇気が俺にはなかった」と曽田に言わしめる。

「真空地帯」は陸軍の内務班を描きだしたものであるが、そのなかで陸軍刑務所を出所した木谷一等兵(元は上等兵だったが、降等された)と取り巻く人々を中心に、軍隊の非人間性がよく表現されている。
「真空地帯」で出てくる初年兵は学徒兵という設定であったが、新兵に対して三年兵たちは執拗にいじめを加える。病院帰りという名目で何の勤務もしない木谷に対するいびり、そして刑務所帰りとわかると一斉にはやし立てる三年兵。同じ古年次の兵隊でも現役兵と補充兵はまた違い、補充兵は年長ながら軍隊では陰の存在である。最後に木谷は、自分が陸軍刑務所に入った背景に、経理部の不正があることを知るが、その経理部の一味である金子軍曹の策略で野戦行きとされる。内務班での三年兵や下士官らの底意地の悪さ、どこの日本の軍隊でも日常的にあった嫌な体質だ。それは陸軍だけではない。海軍も同じであり、地方出身者が訛ってうまく申告できないと、分かっているのに分からないフリをして何度でも言い直しをさせるとか、気分次第で後輩に当り散らすような連中もいたというのは自分もよく知っている。隊内で暴力が横行しているのは、陸軍も海軍も同じで、どちらもこぶしで殴るか、バッターという六角棒でやるかの違いはあるが、天皇を頂点とした軍隊のヒエアルキーと強制には、都合よく作られた条文とともに物理的な暴力が伴っている。

隊内の強制・暴力に加えて、自分は勿論体験したことがないが、軍の刑務所では看守、法務官らが一体となって、服役者に対して理不尽な強制を行う。箸をつけたと思ったら、すぐに食事はやめの号令がかかる。風呂に入るのは一瞬。当然ながら、外界と接することは出来ない。これは「真空地帯」にも、よく描かれている。

そういう場所に入った人を筆者は直接は知らない。しかし、「千葉県の戦争遺跡」HP(http://members.goo.ne.jp/home/mercury_mori)を色々手伝ってくれた森-CHANのご父堂(筆者にとっても親族であるが)が勤めていた職場の同僚で、陸軍刑務所に入っていた人がいたとのことである。

それは敗戦の直前に起きた逃亡事件のために、陸軍刑務所に入れられたというもの。当時、旧満州では関東軍が守っていたが、次第に戦局が悪くなり、関東軍から南方へ移動となる部隊が増えて、換骨奪胎の状態になっていた。

そういう中、その同僚氏は陸軍の飛行兵であったが、自分の搭乗機に自分の愛機を整備していた整備兵らを乗せて、その飛行機で脱走したのだという。二人以上乗ることができたというのは、爆撃機であろうか。これは、いわゆる「敵前党与逃亡」で、陸軍刑法では逃亡罪、それも敵前逃亡、敵前党与逃亡罪については以下の通りとしている。

第七章 逃亡ノ罪

第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第七十六条 党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
 一 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑、無期若ハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ首魁ハ無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ首魁ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

要は、この場合主犯であった同僚氏は死刑または無期、従犯の整備兵も死刑、無期または7年以上の懲役に相当する。

彼らは、飛行機のエンジンを動かし、飛び立とうとした刹那、地上から同じ部隊の兵から銃撃され、弾は機体をかすめたのだという。まるで映画のような話であるが、そうして飛行機で日本上空へ飛来、ついたところが所沢の陸軍飛行場だったという。

そして、その飛行機を操縦してきた同僚氏や着いてきた整備兵たちは、即座に陸軍刑務所に入れられた。そして、暫くすると、日本は戦争に敗れ、刑務所に囚われていた同僚氏らは釈放となる。

しかし、その同僚氏はその後も戦友を裏切って、逃亡してきたことを悔いていた。その裏切りの観念は、ずっと彼の心の中にあり、仕事のほうもパッとせず、上司からも余り評価されず、日のあたらない生活を送っていた。また、貧乏であったため、戦後も暫くの間、飛行服をいつも着ていたという。

しかし、その人とその同僚の整備兵は生きて日本の地を踏んだ。脱走という不名誉と引き換えに。そして、多くの関東軍将兵が、まさに旧満州に残された多くの民間人から逃亡したのをなんらとがめられず、のうのうと戦後も生きてきたのとは対照的に、彼らには「脱走兵」という汚名がずっと付きまとった。

陸軍刑務所から出獄したとき、彼らは新しい世の中で自由になることができると思ったであろう。だが、その新しい世の中も、完全に過去のしがらみのないものではなかった。陸軍の上官ではない、別の上官が会社にはいたし、周囲の目もさほど変わっていなかったのである。

「真空地帯」の染一等兵のように「刑務所くらい何だんねん」と喝破できる人はそうそういない。

(写真は映画「真空地帯」の撮影場所、佐倉連隊跡にある「十二階段」という陸軍の訓練用器具)


2007/10/08 00:45 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某

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