松本清張の小説で、町の有力者の徴兵忌避のために役人が裏工作し、「反動をまわされて」徴兵された中年男が、不正をした役人と軍隊内で自分をいじめた古兵に、戦後復讐するというものがあったり、野間宏の「真空地帯」でも野戦にまわされるのを恐れた補充兵が人事係の准尉に裏工作するエピソードが描かれていたが、実際そういう噂はよく聞いた。この江橋の場合も、軍当局と最初から約束があり、大演説をぶって壮行会を盛り上げるかわりに、弾の飛んでこない内地のしかも整備勤務とされたのではないかと思われる。
また、9月3日午前8時15分には、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と無線打電しており、流言蜚語を取り締まる側の官憲が騒動を煽ったことが分かる。
地震の起きた9月1日の翌2日には千葉県南行徳村下江戸川橋際で騎兵第十五連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺したのをはじめ、東京の四つ木橋周辺でも騎兵連隊の兵による朝鮮人虐殺があり、さらに9月10日頃には高津廠舎に拘束した朝鮮人たちを自警団に引渡し、虐殺させている。千葉県内では、現浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市などを含め、約200名(350名余という説もある)が虐殺されたが、そのなかには朝鮮人に間違われた日本人(大阪出身者など)が多数混じっている。
現八千代市の高津辺りで起きた虐殺では、軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末しようとしたのが明確である。それは、一旦朝鮮人たちを習志野の旧捕虜収容所に保護するような形で収容しながら、その中で反抗的なもの、反帝国主義的で「思想的に」問題のありそうなものを、近隣の自警団に払い下げ、殺害させたことによくあらわれている。これは、関東大震災の際に、大杉栄、伊藤野枝夫妻と甥の橘宗一が甘粕憲兵大尉らによって虐殺されたり、亀戸事件で労働運動家で小説家の平沢計七や共産青年同盟の川合義虎が騎兵第十三連隊の兵らによって虐殺されたように、当時の支配体制からみて好ましからざる人々を震災のどさくさに紛れて抹殺しようとして、それを自らの手ではなく近隣住民に代行させたということである。
一方、高津、萱田、大和田などの、朝鮮人を払い下げられた側は、好んで朝鮮人たちを殺害したのではなく、猟銃などを使える人に頼んで射殺したのだという。
対照的に、船橋市街地で朝鮮人虐殺のなかから子供2人を助け出し、保護して船橋警察署に連れて行った消防団員の話や、同じ船橋の丸山地区で朝鮮人たちと日常交流のあった集落の人々が、朝鮮人を差し出すよう迫る近隣の自警団から文字通り身体をはって彼らを守った話もある。丸山地区の住民の行動には、地区の指導者が社会運動家で差別的な考えがなく、他の住民にも同じ考え方が浸透していた、元々貧しい地区で、日本人、朝鮮人の区別なく、助け合いながら生活していたのが、その背景にある。
思えば、同じ大震災後の混乱した局面にあって、官憲に踊らされて朝鮮人を虐殺する側にまわった日本の民衆と助ける側にまわった民衆、その差は何だったのか。育った生活環境の違いや根強い差別意識があるかないかといったこともあるが、人間の良心というような根源的なものを感じる。人としての魂、良心を失い、「長いものには巻かれろ」で権力者の言うがままに動くのか、確固たる信念、良心の元に、正しいと信じたことを断行するかの違いであるようにも思う。
【ワシントン=五十嵐文】米下院外交委員会は26日午後(日本時間27日未明)、いわゆる従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に公式謝罪を求める決議を採択した。
(2007年6月27日3時15分 読売新聞)」
「六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九 怒を抑へ不満を制すべし。『怒は敵と思へ』と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。 」
しかし、これは南京大虐殺をはじめとして、当時の軍の士気が弛緩し、軍律が乱れ、非戦闘員へのかかる暴力、虐殺、略奪、強姦の類が日常茶飯事として行われていた、その裏返しで、戦陣訓のようなものを制定せざるを得なかったのである。南京大虐殺では、当事者である第十軍の兵員の資質も、問題になった。未教育であるだけでなく、軍律そのものがなっていなかった。そのあまりのひどさに服部卓四郎も嘆いたというが、服部卓四郎も軍の作戦課長などをつとめながら、辻政信とともに謀略に勤しんでいたのだから、どの口でいうとなるであろう。
戦後東京に住んでいた私は、終戦のあくる年から古びた灰色の上着を着て、電車で勤め先まで通っていた。その電車のなかで、教科書をもって乗り込んでくる大学生の姿。同じ年代で、私はうらやましく思った。その大学生の持っている教科書が宝物のように見えたのである。
そして、そののちにある大学に入った。学費の工面は親や兄貴からは期待できず、全部自分で稼がざるを得なかった。もともとどちらかといえば理系人間であったが、大学は文科に進み、主に経済史を勉強していた。海軍甲種飛行予科練卒?の私の大学入学資格は、「旧制中学卒」扱いということで、当然試験もあり、ちゃんと答えられた記憶もないのだが、何か知らんが通ってしまった。時代は伊井弥四郎議長が男泣きした二一ゼネスト中止の翌々年、産別会議は下火になり、下山・三鷹・松川という権力犯罪とおぼしき嫌な事件がおきていたが、中国大陸でも内戦。蒋介石政権は敗れて台湾に逃れ、中華人民共和国が建国した。「きけわだつみのこえ」が出版されたのも、そのころで、大いに反響を呼んでいた。なぜ、日本はあの無謀な侵略戦争に突入したのか、国のため、天皇陛下の御為にといわれて、軍人になった者が、結局遠い外地で悲惨な死を遂げ、同時にアジアの無辜の民が犠牲になった根本原因は何なのか、私も知りたいと思った。
大学に入る前から、「真相」などの雑誌は読んでいてそこに暴露物があり、高級軍人の軍物資隠匿やらの情報は得ていた。初めて、その鍵を解く学問的な本で、接したのは、野呂栄太郎の「日本資本主義発達史」であり、封建的色彩を濃く残した日本帝国主義が戦争とファシズムに活路を見出していったことを知った。
大学は戦災にあっていなかったので、大正の終りか昭和の初めに建てられた美しい講堂はそのまま残っていたし、どういうわけか大学の敷地の半分位は建物もあるのに、ほとんど使われていなかった。その使われていなかった敷地のなかに掘っ立て小屋のような建物があり、そのなかで、数人の仲間とインターを歌ったことを覚えている。その場には、女子学生もいた。なかに一人「いまぞ日は近し」と「旗は血に燃えて」というくだりが、どうも調子のおかしい人がいて、その人への歌唱指導のようになっていた。
といっても、別に政治活動とか、学生運動の類ではない。そこで、ちょっとしたパーティをしたのである。紅茶かなにか飲んだと思うが、酒を飲んで高歌放吟していたわけではない(もっとも、駅前の飲み屋ではよく高歌放吟していたが)。今にして思えば、大学側が学生の私的な集まりで、管理している建物の鍵を貸してくれるとも思えず、どのように建物のなかに入ったのか、よく分からない。
インター、すなわちインターナショナルの歌など、もう歌う人もおるまい。昔は学生も、労働者も、よく歌っていたが。今は、労働組合はすっかり有名無実なものとなった。社会構造の変化で、パートやフリーターなどの増加に伴って組織率も大幅に下がり、御用組合どころか会社の労務の出先機関に成り下がったものが多いと聞く。
それから、国際学連の歌。国際学連を国学連ともいうが、そういうと国学を研究しているように聞こえてしまう。それはともかく、この歌は歌詞も曲もよく、戦後学生運動の名曲であろう。小生、特に「砲火くぐり進んだ我ら 血と灰を思い起こせ 立ち上がれ世界の危機に 平和守る戦いに」という歌詞に共感する。自分は砲火をくぐっていないし、第一戦地に行かなかったのだが、実際に大学には野戦帰りの者や外地から引揚げてきた人間もいた。そして、当時は朝鮮戦争のさなかであった。
思えば、大学の建物のなかで女子学生たちとインターを歌ったころの自分には、わかさと希望があった。お金も家も資産もなかったが、未来があった。
大学院の先輩とも交流があったため、私に大学に残って学者になれという先輩もいた。「君のような人間は、実業界では使い物にならないから、大学院に進め」と滅茶苦茶をいう先輩(のちに大学教授となりロシア政治史か何かの研究をしていた)がいて、周りにいた別の先輩が、「それじゃ我々も実業界で使えないということじゃないですか」と言った。しかし、結局そうした意見には従わず、卒業後も会社勤めを続けた。井上清の本などは密かに読んでいたが、学生時代と異なり、会社の寮ではそういう本を置いておくわけにいかず、本の隠し場所には大分苦労した。そして、自分の生活や仕事を中心にあくせくやって、会社でも管理する側にまわり、いつのまにか年をとった。
血のメーデー事件、砂川基地闘争、左右社会党の統一、所感派、国際派に分裂していた共産党の統一、自民党の結成、岸信介が首相になり、俄かに日本中に広がった60年安保闘争、ミコヤン来日と部分核停条約の押し付け、いろいろ日本中が騒然となった問題があったが、いつも私は傍観者であった。
もはやこの年ではたいしたことは出来そうにないが、今の日本ではどうにもダメだ。しかし、なんとかせねば。
昔は、マスコミも戦争に対する反省などを掲げ、記事の内容も骨のある良いものが見られたが、今は産経新聞が「自民党の機関紙」といわれるのを筆頭に、権力側の世論操作の具に使われているような気がする。特に産経新聞は値段は安いが、内容もひどい。もはや社会の木鐸になっておらず、新聞の体をなしていない。
政治家も、随分と小粒になった。親の七光りのような代議士ばかりで、もう日本は何でも世襲制の封建時代に戻ったのかいなと思うくらい。
社保庁などのお役所は、あいかわらず出鱈目だ。社保庁では年金を着服する職員が多く、それで年金支払漏れがおきる構造になっているのだそうだ。かかるこっぱ役人は税金ドロボーかと思ったが、税金ドロボー兼年金ドロボーがいるわけだ。
ちょっと横道にそれたが、インターの話にもどすと、最近YouTubeにいくつかインターなどの画像、音楽があったので、以下にURLをしめす。こういうのが懐かしいというと、極左老人のように思われるかな。実際は、前述のように殆どノンポリに近かったのだが。
(最後に旧ソ連の国歌を載せていますが、思想的にどうこういうのはありません。曲が好きなのと、動画がよくできていたので載せました。旧ソ連については、ミコヤンという最高幹部がわざわざ来日し国政干渉をしたのですから、どちらかといえば嫌いでした:2007.07.01追記)
インターナショナルの歌(日本語)
http://youtube.com/watch?v=NbOLTFRVsek
The Internationale sung by Barbara Scott
http://www.youtube.com/watch?v=zOkSoQapeEM
The Internationale(ラテンミュージック系)
http://www.youtube.com/watch?v=X9r_8a9rPkc
REDS(1981年アメリカ映画)
http://www.youtube.com/watch?v=PDY0BAe_qGQ
国際学連の歌
http://youtube.com/watch?v=SCdlGH6RhBw
旧ソ連国歌
http://www.youtube.com/watch?v=qLcc19mt4eA
(写真は現在の銀座4丁目付近)
この軍歴は、あまり人に自慢できるものではない。太平洋戦争も終りに近づきつつあった、1943年(昭和18年)も押し詰まってきた頃、北関東の田舎町から一人の軍国少年が志願して海軍航空隊に入った。厳しい訓練の末、結局特攻に行くことなく終戦を迎えた。そして復員し、生活に追われながら、戦後を生きてきた、ただそれだけのことである。
海軍の場合、志願で入るのが普通である。というより、一時期を除いて徴兵して海軍に入れること自体しておらず、あまり応召して海軍に入ったという話も聞かない。
田舎の中学校では陸軍の配属将校(大尉)がいて、匍匐前進やら三八式歩兵銃の射撃の仕方やら軍事教練の時間があり、いつも絞られていた。その頃、家業であった商店はうまくいっておらず、上の学校には到底進めなくなった。私は普通であれば家の仕事を継ぐしかなかった。しかし、家業自体が立ちゆかなくっていた。商家に育った私は、特に軍人になりたい訳ではなかったのだが、その私に陸軍幼年学校を受けてみないかとすすめてくれたのは、中学校の配属将校である老大尉であった。しかし、へそ曲がりだった私は、陸軍幼年学校に行っても、さらに陸軍士官学校の本科に進まなくてはならない、それでは将校になるのにも時間がかかると思い、幼年学校は受験しなかった。暫くして、海軍の甲種飛行予科練を受けることにした。もちろん、海軍兵学校という選択肢もあったが、兵学校の入学資格は16歳からであり、中学に入ったばかりの私には、やはり手っ取り早い方法と思えなかった。
やがて、中学3年となった私は、父母にも相談せず、予科練の願書を取り寄せ、出来る限り丁寧に書いて提出した。そして勇躍志願して、身体検査・学科試験の第一次試験を受験した。海軍志願兵徴募区からの合格通知が郵送され、喜ぶ私を両親は寂しそうな顔で見ていた。私は、その通知のなかの「参著」という言葉がわからず、参拝とか、参上とかいうのだから、とにかく行くことだな、というようなことを考えていただけであった。そして、第二次検査は身体検査、適正検査ばかりで、性病の検査まで含まれていた。結局、かなりの難関を突破し、採用通知をもらったのは1943年(昭和18年)11月上旬ころであったか。
私は入隊の日を一日千秋の思いで待っていた。ところが、ある日、ふとしたことから、右手の人差し指を負傷した。もとより自分の不注意であったのだが、これがもとで操縦桿が握ることができなくなるでは、と子供心にも心配した。そして、行っては行けないところに行こうとしている自分を引き止める何かを感じた。今にして思えば、その傷は戦死するかもしれない自分を思いとどまらせようと、先祖がつけたのかもしれない。実際、なぜ若いお前が飛行兵なんぞになるのかと母は陰で泣いていたし、父も口には出さなかったが、同じ思いであったのだろう。
いよいよ入隊となり、予科練要員は出身県別に配属先の航空隊へ進んでいった。途中「京」の字の腕章を巻いた集団に出くわした。私は京都の連中がなぜ、こんなところにいるのだろうと思ったが、よく見ると、東京の「東」という字が腕章の曲がった部分で隠れていたのだった。やはり、東京の連中はスマートだなと瞬間うらやましい気がした。丹波市駅を降り、待っていた下士官から自分の所属を聞き、その誘導で兵舎についたのだが、兵舎たるや普通の日本家屋の大きいものと言ってもいい。今でも地方に行くと、銭湯のような大きな日本家屋があることがあるが、ちょうどそんな感じで、少しも軍隊らしくない。海軍二等飛行兵となって、自分の家より大きな家に他の仲間と引っ越したようであった。
入隊した三重海軍航空隊奈良分遣隊は、実は今の奈良県天理市に広い教会や宿舎を持っていた天理教の宿舎を兵舎として活用したもので、逆にいえば利用可能な天理教の宿舎がたくさんあったために、そこに航空隊を開設したということになる。高野山航空隊も同様で、高野山の宿坊を兵舎とすることができたので、海軍航空隊にも関わらず、海から遠い内陸部の、それも山の中に航空隊をつくったわけである。
東の土浦航空隊と同様、三重航空隊本隊は予科練のメッカであったが、それに比べて奈良は貧弱で、練習機すらなく少しがっかりした。しかし、奈良が私の短い軍隊生活の出発点であった。
海軍入隊のときに、いろいろな官給品よりも早く与えられたのが、兵籍番号。兵籍番号とは、例えば「横志飛一ニ三四五」という番号で、その個人を識別管理していた。その番号は、「横」で始まるものは、横須賀鎮守府に所属していることを表し、同様に「舞」であれば舞鶴鎮守府、「呉」なら呉鎮守府ということになる。ニ番目の「志」は志願兵、その次の「飛」は飛行科で飛行兵であることを示すが、これが「水」なら兵科で水兵、「機」は機関科、「工」は工作科を示すという具合である。その兵籍番号と氏名を官給品で貰った軍装やら衣嚢やら、私物を含めたありとあらゆるものに書くのが、軍隊に初めて入ったときにする作業といってもいいであろう。
どこの社会にもヒエラルキーはあるが、それは予科練の世界でも同様である。教官や先輩からも、ややもすれば鋭い罰直の鞭が飛んでくる。例えば、釦が外れていたとする。それを発見されるや、「貴様、予科練の七つ釦が要らないんだな」と、全ての釦をちぎられてしまうのだ。それは、声の出し方、話し方ひとつについても、同じで、声が小さければ、「聞こえん、やり直し」で何回も発声させられる。かわいそうなのは、地方出身者で訛りのあるもの。これは本人はまじめに言っているのに、わざと分からないふりをする。こうなると苛め以外の何物でもない。実際、意地の悪い先輩には、理由もなく殴るのは朝飯前、出身地や名前などにも何かと因縁をつけてはいびるのがいた。
予科練の座学は、物理、化学、国語、漢文、地理、歴史、それに気象天測、通信(電信)などで、大体のものにはついていけた。特に、電信は得意であった。「イはイトー」とか覚え方があるのだが、そのまま聞いてモールス符号はすぐに覚えた。また、私は体格は大きくなかったが、田舎の中学で球技はやっていたので、大抵の訓練にもついていけた。訓練で困ったのは、直径2メートルくらいの鉄筋でできた大きな地球儀のような訓練具のなかにはいって、ぐるぐるまわるもの。これは目が回って仕方がない。降りてからも、目が回っている。棒倒しは傷だらけになる、一番スマートでない競技で、そちらも苦手であったが、球のなかよりまだましか。それから、陸戦。なんで海軍に陸戦の訓練が必要なのか、とも思ったが、海軍も陸にあがれば陸戦をしなければならない。
1944年(昭和19年)3月海軍上等飛行兵となった。同時に、操縦・偵察の区分けがあり、私は偵察となった。てっきり操縦にいくものと思っていたのに、偵察とは残念と何人かで話したが、分隊士は偵察の重要性を説き、特に二人乗り以上の搭乗機では偵察要員が機長になる、それで落胆するなど全くのお門違いだと言った。
偵察専修は、航法、無線通信、無線機の操作、写真撮影など、より専門的な座学で学ぶことになる。偵察分隊に配属されたと同時に兵舎もかわった。また、実際の訓練も含めて、鈴鹿などの別の航空隊にも足を運ぶこととなった。
1944年(昭和19年)11月には予科練偵察専修過程を卒業、飛練に進んだ。もう既に飛行兵長になっていた。但し自分としては、「帽振れ」で人を送り出す一方であった。
海軍で過ごした1年8ヶ月余りは、一体何だったのか。幸いにして、小生は特攻に出ることはなかった。1944年(昭和19年)9月には特攻兵器要員志願はあったが、志願しなかった。それは入隊の時、指に怪我をした際に感じた、生存本能のような、あの何ともいえないものが引き止めたのかもしれない。
グライダーには乗ったが、本当の飛行機には乗ることとてなく、名ばかりの飛行兵といえばいえる。しかし、回天や震洋の搭乗員になったのは三重海軍航空隊奈良分遣隊のものが多い。
1945年(昭和20年)3月、三重海軍航空隊奈良分遣隊は三重空から独立して、奈良海軍航空隊となった。その前にも続々と甲飛の入隊があり、自分達と同じように訓練を行っていった。歴史は繰り返すというが、短い期間で繰り返されるものだ。
そして、8月15日終戦。正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。終戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは関西では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。
ともかくも、残務整理の一部要員を残して、一般の下士官・兵には復員命令が8月下旬には出ていた。自分も下士官に任官していたが、階級章を取った軍服を着たただの若者に戻ったのである。それにしても、寂しい復員帰郷であった。列車で帰郷する途中、近くの乗換駅で汽車がホームに入っているのに、悔しさとどの面下げて帰ることができるかという思いからベンチから立つことができず、尋常ならざる表情の小生を心配した親切な駅員さんに促されて汽車に乗り込んだ。故郷で待っていたのは、父母と兄夫婦のみ。友人は散り散りになり、近所の秀才といわれた中学の先輩は陸軍の見習士官としてボルネオで戦死していた。なによりも、東部軍38部隊にいた自分の従兄が、その時点で2年も前に中支で戦死していたのは、悲しかった。中国淅江省湯渓県の橋のたもとで戦死したとの公報は来ていたが、私の訓練にさしつかえると、わざと知らさなかったのだという。入隊以来、一度しか帰郷せず、その帰郷のさいにも従兄の家の人とは会わなかったので、分からなかった。今にして思えば、従兄の話題をみな出さないようにしていたのであろう。
私は、「故陸軍伍長・・・」と位階勲等と俗名の書かれた、従兄の墓前に線香を供え、涙が止まらず。「天皇陛下の馬鹿野郎」と言って、泣いた。自分のなかで、軍隊の大元帥であった天皇、その天皇を支えていた一切の支配機構といったものは、自分の仇であり、いつか仇討ちをしなければ、死んでいった従兄にあいすまぬと思った。別に何かの思想を持っていたわけではなく、むしろ信念として仏の加護はわれにあり、悪しき天皇やその取り巻きは仏罰を受けるべしと自然と思ったのである。その日から、まもなく上京し、そして建設会社の役員をしていた親戚の家に書生のような形で下宿して、東京で就職した。