予科練とは何だったのだろう、と今も時々思うことがある。
中学三年やそこらで、何十倍もの倍率を潜り抜けて海軍に入り、学科はもとより、体技や武技と、厳しい訓練を受け、行動は制約されて、予科練を出れば飛練に進み、そこも出れば実施部隊に配属になる。そして、特務士官になるか下士官のまま往くかは別として、いざ出撃となれば生きて還る保証はない。
昔予科練の制服は、水兵とおなじジョンベラであった。これが七つ釦の格好いい制服となり、特に甲種飛行予科練の場合は、海軍兵学校に準じた進級や待遇などという当局の甘言もあって、今にして思えば、熱で浮かされたように、みな騙されて海軍の予科練を志願したのである。
小生の発信したある日のメールより。
「森兵男です。
元々のご質問の趣旨とは違う、余計なことを書いてしまいました。予科練のなかの甲飛、乙飛の対立ですが、ざっと以下のようなことです(コップの中の嵐のような話です)。
海軍航空隊の予科練習生の制度は、1930年(昭和5年)に横須賀の航空隊に設置されたのを嚆矢としますが、元々は高小卒(あるいは中学ニ年修了程度の)15歳から17歳程度の少年を三年間養成して、その後飛行戦技訓練を行って実戦力となる航空兵に仕立てようというものでした。
当初は甲種飛行予科練も、乙種飛行予科練もありませんでした。ところが、1937年(昭和12年)になると、従来より練習期間を半減させて一年半とし、募集も中学四年一学期修了(のちに中学三年修了)程度の者として、甲種飛行予科練の制度をつくり、従来の予科練は乙種飛行予科練となりました。
海軍は甲飛募集に際して、誇大な宣伝を行い、海兵と天秤にかけて甲飛に志願するものなどもあらわれ、甲飛として海軍に入ったものの騙されたと失望感を抱く者、屈折した者が出てきました。
一方、元々の予科練である、乙飛は自分たちより訓練期間も短く、下士官に任官するのも早い、甲飛にたいして面白い筈がなく、甲飛と乙飛が混在し、両者の勢力が拮抗しているような航空隊では、両者の反目、いがみ合いがあったのです。
海軍の制度上の問題に起因しているとはいえ、若い連中によくあるグループ間の軋轢という面もあると思います。
ちなみに、甲飛、乙飛とは別に、1940年(昭和15年)、一般の兵から航空兵に選抜する操縦練習生と偵察練習生を統合し、丙種飛行予科練習生(丙飛)としました。これは水兵や機関兵から選ばれた飛行兵の卵で、(略)『とっつあん予科練』とか呼ばれていました。この人たちはさすがに超然としていたと思います。
何か話が逸れたままで、すみません。」
実は、小生も海兵と天秤にかけていないが、陸軍幼年学校に進むのをやめて後に予科練に入ったくちである。純粋な愛国の志と口で言えば、聞こえがいいが、小商人の倅で門閥とも無縁、日露戦争直後に模範兵として兵役を送っていたのに差別されて伍長になれなかった親父から聞いた話や、学校に配属されていた陸軍の将校が機嫌の良いときに教えてくれた話を総合して、要領の良さや縁故の罷り通る陸軍よりも海軍のほうが公平そうだと子供なりに選択した道である。
しかし、その選択は死に直結していたのだ。小生は、1944年8月下旬の残暑厳しき頃、練習生が皆一堂に集められ、外部に話が漏れるのをおそれて暗幕まで張った薄暗いなかで、司令である大佐から「○(マル)兵器要員募集」について聞かされたときも、それが今までの予科練での訓練とは無縁な飛行機以外の特攻兵器であるということから、それには志願しないと無印で応募用紙を提出した。「○(マル)兵器」というのが、回天や震洋などであることは、すぐには分からなかったが、後で知ってやはり志願しなくてよかったと思った。自分は偵察要員、それも専門は電信である。どうせ死ぬなら、飛行機に乗って無線を飛ばしながら、あるいは得意だった機銃をうちながら死ぬのであれば本望だが、飛行機以外の死に場所は考えたくなかった。
なお、回天搭乗員では、小生の親戚でもなんでもないが、同姓の森稔君が特攻死している。
彼は狭い回天のなかで、近づきつつある敵艦に向かっていったとき、どんな心境だったのだろうか。回天などの訓練をしたものの、命拾いした人も少なくないが、回天にせよ、飛行機での特攻にせよ、十六、七の少年に死を覚悟させるのが、どれほど罪なことか。