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2025/06/20 06:24 |
沖縄戦の真相を歪める反動のイヌども

Ushijimachujyo.jpg太平洋戦争末期、米軍が沖縄に上陸し、多くの民間人が犠牲になったことは周知のとおりである。沖縄守備の第32軍は1945年(昭和20年)3月26日座間味などに上陸した米軍に押されて撤退を繰り返し、食糧の備蓄の少ない北部に非戦闘員を避難させるなどの指揮命令の混乱もあって、多くの県民が犠牲になった。第32軍司令官の牛島満中将は「爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ」という命令を残して1945年(昭和20年)6月22日あるいは23日早朝に長勇参謀長と共に摩文仁で自決した。牛島満中将自身は自決し、部下に捕虜になるな、最後まで戦えというのだから、無責任である。かくて日本軍の組織的な抵抗は終わり、各地で散発的な戦闘はあったものの、傷つき糧秣を失った日本軍、および中学生まで戦闘を行った沖縄住民は奥地の壕に隠れるか、絶望的な切り込みをかけて死ぬか、力尽きて米軍の捕虜になるかといった状況にあった。

敗走の続く中で、日本軍が沖縄の非戦闘員を含む多くの住民に対して何をしたのか、それは知られていない部分が多い。現在あふれる軍国調、つくられた美談ばかりの戦史のかげに隠れてはいるが、真相を語る証言は、一部、沖縄県史や証言集としてのこされた印刷物やHPに見ることができる。
たとえば、「沖縄戦の記憶」というHP(下記URL)には、以下のような記事がある。

http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/index.html


子どもは始末せよと脅されたが拒否
島里(旧姓島袋・35歳 ・男性 ・警防団)

一九四五(昭和二〇)年、美里の警防団員だった私は、羽地村には疎開せず部落に踏みとどまりました。当時、私は三五歳でした。(略)

四月二日、胡屋の部隊にいた島袋隆龍さんが壕に来て『胡屋の飯田隊は全滅したので、みんな早く家に帰って、子どもは始末しろ。もしもここらでうろうろするなら、たたっ斬ってやるから』と日本兵たちに脅かされたと、非常に興奮して話していました。

彼の話を聞くや私たちは驚きのあまり松本の壕をすぐに抜け出て家に戻り、西石川(イリーイシチャー・屋号以下同)の家族といっしょに泉作原(イジュンサクバル・美里の小字)に向かいました。泉作原にはたくさんの古い墓と自然壕があって、私たち家族もその自然壕に避難しました。どうしても長男の善晴だけは助けたいとの一心で本当に必死でした。(以下略)」

渡嘉敷村長の証言 
米田(?歳・村長)
 集団自決

私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。(略)

安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松*の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。(略)

上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。ぞれでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。
集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。

安里喜順巡査は(略)『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません』といっていた。私の意識は、はっきりしていた。

私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。
周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。

その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。

私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぼは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。

陣地を追っぱらわれた私たちは、恩納川原にひきかえした。一部は儀志保島に対面する、この島の北の瑞に移動していたようだった。その時自決用の手榴弾の爆発音と、生き残って途方を失った村民の阿鼻叫喚に、迫撃砲が誘われたように撃ちこまれていた。(略)

私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。 (略)

 集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、『我が国の軍隊は…』と軍人勅諭をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚の屠殺を禁止する、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。」 * 赤松嘉次大尉(筆者注:遺族、自由主義史観研究会等が最近名誉回復訴訟をおこした)

上記証言から集団自決への軍の関与は歴然であり、日本軍とは沖縄県民にとって、友軍か敵軍かわからない状況にあった。

集団自決について、軍の強制がなかったなどという、奇妙な説を唱える御用学者、反動ジャーナリズム(というより反動プロパガンダ)の連中がいる。しかし、陸軍大臣であった東條英機が中心となって、戦陣訓をつくり、「生きて虜囚の辱めをうけず」などの条文を1941年(昭和16年)に陸訓一号として布告した。それを陸軍のみならず、軍全体、国民全体に、ことあるごとに繰り返して達し、「捕虜になるくらいなら自決せよ」という考えを植えつけたのも周知の通りである。

Okinawa_01.jpg

そんな歴史的背景も、日本軍の実態も知らない者たちが、信念のために一命を投げ出す覚悟もないくせに、作り出したのがボウフラのごとく湧き出した反動団体である。その一つである、「新しい歴史教科書をつくる会」が最近沖縄戦に関する教科書検定のあり方に対する沖縄の自民党を含む県民各層の抗議の声に対し、水をさす馬鹿な動きをしている。

以下、朝日新聞HPより引用。

「つくる会『検定意見の撤回拒否を』 文科省に申し入れ
2007年10月04日19時01分

 沖縄戦で日本軍が住民に『集団自決』を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、『新しい歴史教科書をつくる会』は4日、文部科学省に対して検定意見の撤回をしないよう申し入れた。記者会見した会長の藤岡信勝・拓殖大教授は『軍の命令や強制がなかったことは実証された史実』であり、教科書会社による訂正を認めることは『検定制度の枠組みを外部の圧力によって有名無実化することになる』と述べた。」

この「新しい歴史教科書をつくる会」は西尾幹二が初代会長であったが、2002年に小林よしのりと西部邁が退会、2006年には西尾幹二も「つくる会」を脱会している。2006年初頭、一時八木秀次(日本会議系・統一協会?)が会長であったが、八木も無断での中国旅行をとがめられ、辞任。種子島経(キリストの幕屋の関係者)が会長となり、八木は副会長となったが、2006年4月に二人とも辞任、脱会し、高池勝彦(弁護士)が会長代行、藤岡信勝・福地惇が副会長となった。
その後、6月20日の理事会で、小林正(元社会党参院議員:統一協会の「天宙平和連合祖国郷土還元日本大会」横浜大会に出席)が会長に選出され、高池勝彦は藤岡・福地と共に副会長となった。同日、桜井裕子(元世界日報記者:統一協会員)が新理事に選ばれた。
なお、退会した八木は、2006年6月30日、つくる会と袂を分かつ形で「日本教育再生機構」を設立した。さきに退会した西尾幹二は八木について自分のブログ(「西尾幹二のインターネット日録」2006年4月8日)で以下のように述べた。

「私の家に3月8日に届いた最初の『警察公安情報』の出所が何処かは、勿論分らない。『発信04481』という信号は、私には何のことか見当がつかない。
 怪メール事件は2月27日と3月28日の二つの理事会の間に起こり、『つくる会』を揺さぶった。それが問題である。会が八木=宮崎プラス四人組のグループとそれ以外の勢力に完全に割れてしまっていることは、この問題を考える前提である。(略)
 3月20日福地惇理事は八木、宮崎両氏と会談した。八木氏は自分の方から『警察公安情報』の存在を知っているか、と問うた。福地氏は『単なる噂ではないか、自分は見ていない。それは何処に根拠があるのか』と問い質した。八木氏は『単なる噂ではない。公安情報を正式につかんでいる。警察公安と自分はパイプがあって、これには確かな証言がある』と自信ありげに、得意げに強調した。 (略) 氏は『公安のイヌ』になり下がっているのである。(以下略)」

このように、絶えず内紛を繰り返し、役員の入れ替りが激しいのだが、最近の体制は以下の通りである。

役員(2007年6月1日現在)
会長/藤岡信勝(拓殖大学教授)
副会長/福地惇(大正大学教授)
理事/市田ひろみ(服飾評論家)、九里幾久雄(浦和大学名誉教授)、高池勝彦(弁護士 百人斬り競争訴訟弁護団長)、高森明勅(拓殖大学客員教授)、吉永潤(神戸大学助教授)、石井昌弘(拓殖大学客員教授)、上杉千年(歴史教科書研究家)、遠藤浩一(評論家)、小川義男(狭山ヶ丘高等学校校長)、濱野晃吉(経営コンサルタント)、福田逸(明治大学教授)、梅澤昇一(尚美学園大学教授)、杉原誠四郎(武蔵野大学教授、世界日報ビューポイント執筆メンバー)、桜井裕子(元世界日報記者、「国民の油断」年表執筆者)
顧問/芳賀徹(東京大学名誉教授)
監事/平野富國

会長である藤岡信勝は、本人の言によれば、アメリカに1年滞在した後の1992年(平成4年)まで共産党員であった学者であるが、奥さんも元党員、その御父君舩山謙次氏も共産党支持者だったそうだ。なぜ転向して、今では御用学者になったか、「湾岸戦争で考えが変わった」という程度でなんら確たる弁明がなく、アメリカ滞在中に反動に何か取り込まれるような弱みができたのか、はっきりしない。
ただいえることは、役員には統一協会関係者もおり、日本や韓国の売国反動勢力が、この会を操っているということ。「新しい(反動)教科書」など売れないので、扶桑社も出版元を降りてしまった。
今回の件も、歴史を科学とみとめず、人間性や歴史の真実を打ち捨てて、しかも仲間同士内紛を繰り返した団体の、イヌの遠吠えであろう。沖縄県民をはじめ、良識ある日本国民はかかる売国反動勢力など認めないのである。
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2007/10/08 12:32 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某

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