松戸の戦争遺跡を追加調査するために、八柱から千駄堀をたずねた。八柱には陸軍の境界標石がたくさんあり、以前写真を撮りにきたことがあるし、松戸市立博物館には何度か寄せてもらっているので、場所はすぐに分かった。千駄堀は、戦争末期に塹壕や防空壕などがさかんに掘られた場所であり、その場所は、現在「二十世紀の森と広場」になっていて、おおかた公園として整備されている。
塹壕は旧陸軍が1945年(昭和20年)2月から終戦にいたるまで千駄堀のあちこちに掘ったもので、当時松戸には現松戸高校の松戸高等女学校には野戦重砲兵第十九連隊、松戸農業専門学校には独立工兵第六十二大隊が配備されており、第九十三師団司令部、とそれに師団に属する通信隊、輜重第九十三連隊なども駐屯していた。そのどの部隊が、塹壕を掘ったかも定かではないが、千駄堀の山林を弾薬や食糧などの隠し場所として目をつけた陸軍が、この地にいくつかの塹壕を掘り、弾薬等を保管しようとした。
戦後60年以上たっているために、自然崩落や木の枝や木の葉の堆積によって、塹壕跡はかなり分かり難くなっている。その痕跡は「二十世紀の森と広場」の「つどいの広場」から「みどりの里」に向かう台地斜面にあり、西が出入り口で東に向かって掘ったとされる。
今見てみると、穴状ではなく全体的に草木に覆われているが、斜面に削られたような露出部分があることで、かろうじて人工的なものと分かる程度である。
塹壕だけでなく、防空壕もあったそうであるが、そちらのほうは分からなかった。公園ではなく、住宅となっている部分にあったものか。
今見てみると、穴状ではなく全体的に草木に覆われているが、斜面に削られたような露出部分があることで、かろうじて人工的なものと分かる程度である。
塹壕だけでなく、防空壕もあったそうであるが、そちらのほうは分からなかった。公園ではなく、住宅となっている部分にあったものか。
公園の管理事務所にも、聞いてみたが、「軍が塹壕を掘ったとか、弾薬庫があったとかいうが、確証がない。場所も特定できない。」という返事であった。公園の管理をしている人といえども、役人には違いないのであろう、いかにも役人的な答えである。「『不明』とか言っていないで、すぐ近くなんだから調査したらいいじゃないか」と、いつものように言いそうになったが、この人たちは学芸員でもなければ、市の要職にある人たちでもないので、言うのはやめた。
まあ、こういうことはしょっちゅうあるので、さほど気が滅入るというほどではないが。
それはともかく、この塹壕については『千葉県の戦争遺跡をあるく』(千葉歴史教育者協議会)によれば、掘っている際に、土砂が崩れ二人の兵士が生き埋めにされて、なくなったそうである。その名前や階級も分からないという。戦時下の痛ましい事故であるが、そのような例は全国各地にある。
こういう軍隊の作業中での事故死や、軍需工場での事故死などは、余り触れられないが、意外に多かったのである。
こういう軍隊の作業中での事故死や、軍需工場での事故死などは、余り触れられないが、意外に多かったのである。
帰りがけ、ふと見ると公園に藤棚があった。奇麗に藤の花が咲いている。最近、若い人も含めて、頭が固い、アホな連中(安倍総理などその筆頭か)に腹をたてており、そこへ公園の管理事務所の前述の応対があったため、さらに気がムシャクシャしたが、藤の花を見て何となく気が和んだ。
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