先日、なくなった植木等さん。「牛乳石鹸、よい石鹸」のコマーシャルでお馴染みの「シャボン玉ホリデー」や「無責任男」シリーズの映画でわれわれを楽しませてくれ、あの競争の激しい、あくせくと働いた時代に生きる活力といっては大袈裟だが、なにか希望を与えてくれた。
あの「ハイそれまでヨ」はよく宴会などでも歌われ、小生もある高名な大学教授が歌うのを聞いたことがある。「あなただーけがー 生きがいなのー」とシンミリとしたムードで始まり、やがて「てなこといわれて、その気になって」と当時流行していたアップテンポなツイストのリズムに急に切り替わるところ、見事だったなあ。それを植木等さんは、実にスマートにやった。
「無責任男」シリーズでは、浜美枝さんとか美女が必ず同僚役などで出てきて、それに植木等さん演じる「無責任男」がダボラを吹く。だが、「無責任男」は本当は責任感の強い男、とても出来ないような仕事のノルマを自分に課して、やり抜いてしまうのである。その超人ぶりは、まあ映画だから出来ることだけれど、ちょっとうらやましかった。
あの「無責任男」のような、ハイテンションの人間は、普通いない。小生も、あれが植木等さんの地の姿に近く、そのまま演じているように、ずっと錯覚していた。しかし、あとで分かったのは、植木等さんは真面目人間で、あの「無責任男」とはかけ離れた人物。役柄でやっていたということ。
その真面目な植木さんは、もともと歌手志望で、そのためバンドを渡り歩き、フランキー堺さんの目にとまって、コミックバンドをやり始めたのだという。その植木さんでも「スーダラ節」を歌うときには、歌詞があまりに自由奔放というか、滅茶苦茶なので、こんな歌を歌っていいのか悩んだそうだ。その悩みを解決してくれたのは、浄土真宗の僧侶であった植木等さんの御父堂であった。以下、毎日新聞ニュースを引用。
「毎日新聞 2007年3月29日 0時49分
余録:植木等さん
亡くなった植木等さんの父は戦前、労働運動や部落解放運動に身を投じ、また出征兵士に『戦争は集団殺人だ』と説く反骨の僧侶だった。その父が治安当局に拘束されると当時小学生だった等少年は父の代わりに僧衣を身にまとい、檀家(だんか)を回って経をあげた▲ある日檀家から帰る途中、近所のいじめっ子らが道に仕掛けた縄で転び、顔を強打して鼻血を流した。等少年は近くに潜む連中に仕返ししたい衝動を必死でこらえ、泣き声も罵声(ばせい)もあげることなく、血だらけの顔のまま静かにその場を立ち去った▲『衣を着た時は、たとえ子供でもお坊さんなのだから、けんかをしてはいけません。背筋を伸ばし、堂々と歩かねばなりません』。そんな母の言葉が等少年の頭にあった。家に帰ると母は何も言わず手当てをし、血が止まると等少年を抱きしめ『よく辛抱したね』と涙を流したという▲『まじめな苦労人がいったんライトを浴びるとすごくおかしくてインチキな人物になる』『まじめな人がひとたびカメラの前に立つと思いっきりはじけた』。植木さんの訃報(ふほう)を耳にした知人の多くは、デタラメな無責任男を求道者のようにひたむきに演じた見事な所作をたたえている▲もともとスーダラ節を歌うのがいやで悩んだ当人だ。だが『わかっちゃいるけどやめられない』と人間の弱さを認めるのは親鸞の教えに通じると説いたのはあの父だった。おかげで人をあざける笑いでなく、自らに潜む軽薄を風刺する新しい笑いが、高度成長期の日本人を元気にした▲『やりたいことと、やらねばならないことは別と教えてくれたのがスーダラ節だった』とは後年の回想だ。『無責任男』という時代の僧衣をまとい、堂々と自らのなすべきことをやりとげた生涯である。」
書かれているように、植木等さんの御父堂は、仏の道の分かった立派な人だ。植木さんも、その御父堂がいたおかげで、あの「無責任男」が演じられた。植木等さんの御父堂は、もともと歌ではのど自慢とかで鳴らしたそうで、そういう一面があったために、植木等さんが大学をでて芸能界入りするときも、寺を継いでほしいと思いつつも、しぶしぶ承諾したそうだ。
いつの間にか、「シャボン玉ホリデー」の出演者も鬼籍に入る人が増えた。かくいう小生も棺桶に片足入れている。植木等さんの御冥福を祈る。
あの「ハイそれまでヨ」はよく宴会などでも歌われ、小生もある高名な大学教授が歌うのを聞いたことがある。「あなただーけがー 生きがいなのー」とシンミリとしたムードで始まり、やがて「てなこといわれて、その気になって」と当時流行していたアップテンポなツイストのリズムに急に切り替わるところ、見事だったなあ。それを植木等さんは、実にスマートにやった。
「無責任男」シリーズでは、浜美枝さんとか美女が必ず同僚役などで出てきて、それに植木等さん演じる「無責任男」がダボラを吹く。だが、「無責任男」は本当は責任感の強い男、とても出来ないような仕事のノルマを自分に課して、やり抜いてしまうのである。その超人ぶりは、まあ映画だから出来ることだけれど、ちょっとうらやましかった。
あの「無責任男」のような、ハイテンションの人間は、普通いない。小生も、あれが植木等さんの地の姿に近く、そのまま演じているように、ずっと錯覚していた。しかし、あとで分かったのは、植木等さんは真面目人間で、あの「無責任男」とはかけ離れた人物。役柄でやっていたということ。
その真面目な植木さんは、もともと歌手志望で、そのためバンドを渡り歩き、フランキー堺さんの目にとまって、コミックバンドをやり始めたのだという。その植木さんでも「スーダラ節」を歌うときには、歌詞があまりに自由奔放というか、滅茶苦茶なので、こんな歌を歌っていいのか悩んだそうだ。その悩みを解決してくれたのは、浄土真宗の僧侶であった植木等さんの御父堂であった。以下、毎日新聞ニュースを引用。
「毎日新聞 2007年3月29日 0時49分
余録:植木等さん
亡くなった植木等さんの父は戦前、労働運動や部落解放運動に身を投じ、また出征兵士に『戦争は集団殺人だ』と説く反骨の僧侶だった。その父が治安当局に拘束されると当時小学生だった等少年は父の代わりに僧衣を身にまとい、檀家(だんか)を回って経をあげた▲ある日檀家から帰る途中、近所のいじめっ子らが道に仕掛けた縄で転び、顔を強打して鼻血を流した。等少年は近くに潜む連中に仕返ししたい衝動を必死でこらえ、泣き声も罵声(ばせい)もあげることなく、血だらけの顔のまま静かにその場を立ち去った▲『衣を着た時は、たとえ子供でもお坊さんなのだから、けんかをしてはいけません。背筋を伸ばし、堂々と歩かねばなりません』。そんな母の言葉が等少年の頭にあった。家に帰ると母は何も言わず手当てをし、血が止まると等少年を抱きしめ『よく辛抱したね』と涙を流したという▲『まじめな苦労人がいったんライトを浴びるとすごくおかしくてインチキな人物になる』『まじめな人がひとたびカメラの前に立つと思いっきりはじけた』。植木さんの訃報(ふほう)を耳にした知人の多くは、デタラメな無責任男を求道者のようにひたむきに演じた見事な所作をたたえている▲もともとスーダラ節を歌うのがいやで悩んだ当人だ。だが『わかっちゃいるけどやめられない』と人間の弱さを認めるのは親鸞の教えに通じると説いたのはあの父だった。おかげで人をあざける笑いでなく、自らに潜む軽薄を風刺する新しい笑いが、高度成長期の日本人を元気にした▲『やりたいことと、やらねばならないことは別と教えてくれたのがスーダラ節だった』とは後年の回想だ。『無責任男』という時代の僧衣をまとい、堂々と自らのなすべきことをやりとげた生涯である。」
書かれているように、植木等さんの御父堂は、仏の道の分かった立派な人だ。植木さんも、その御父堂がいたおかげで、あの「無責任男」が演じられた。植木等さんの御父堂は、もともと歌ではのど自慢とかで鳴らしたそうで、そういう一面があったために、植木等さんが大学をでて芸能界入りするときも、寺を継いでほしいと思いつつも、しぶしぶ承諾したそうだ。
いつの間にか、「シャボン玉ホリデー」の出演者も鬼籍に入る人が増えた。かくいう小生も棺桶に片足入れている。植木等さんの御冥福を祈る。
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