この中山法華経寺は、創建当初一寺でなく、ルーツを鎌倉時代に遡る二つの日蓮宗寺院がもとで、富木(とき)常忍が館内に建てた、持仏堂を原形とする妙蓮山法華寺(現在中山法華経寺の奥之院である正中山若宮奥之院)と大田乗明の館址があったという本妙寺の二寺が後世に統合したものである。すなわち、遺言により富木常忍の跡を継いだ日高(大田乗明の子)が、本妙寺を拠点とし、法華寺の貫主を兼ねて、法華・本妙寺両山一主制が形成され、さらに1545年(天文14年)に両寺が合併統合して、中山法華経寺が正式な寺号となった。
富木常忍とは、日蓮の最も古い壇越の一人であるが、富木五郎源胤継という因幡国富城郡出身の武士で、文官としての能力を買われて千葉氏に招かれ、千葉頼胤の被官となった。下総の地で、常忍は葛飾八幡の別宮若宮八幡の別当で、下総国八幡庄谷中郷若宮戸の領主になっていた。日蓮上人は『立正安国論』をもって執権北条時頼に諫暁したが省みられず、1260年(文応元年)、かえって鎌倉松葉ヶ谷で焼き討ちにあい、鎌倉を逃れ身を寄せた先が下総国八幡庄の富木常忍の屋敷であったといわれる。
日蓮上人は、破邪顕正のために、舌鋒鋭く腐敗した幕府や堕落した人々を批判し、法華経に拠って国難に立ち向かうべしと説いたが、権力側からの攻撃も激しいものがあり、伊豆や房総の小松原、龍口と数々の法難に遭っている。
日蓮上人は、破邪顕正のために、舌鋒鋭く腐敗した幕府や堕落した人々を批判し、法華経に拠って国難に立ち向かうべしと説いたが、権力側からの攻撃も激しいものがあり、伊豆や房総の小松原、龍口と数々の法難に遭っている。
富木常忍と日蓮上人は、1253年(建長5年)には出会っていたらしく、富木常忍は1253年(建長5年)12月9日付けと推定される書状『富木殿御返事』を日蓮上人から受け取っており、そのなかで日蓮上人が富木常忍の屋敷を訪れる旨の記述があり、既に富木常忍が館内の持仏堂で日蓮上人の教えをうけていたことがわかる。
この持仏堂で日蓮上人は初めての百日間の法輪を転じ、奥之院は「最初転法輪の聖蹟」と呼ばれた。その後、常忍は蒙古来襲で主君を失い、現世来世の平安を祈願して釈迦仏の造立を祈願し、1277年(建治3年)に常忍の子、日頂上人によって開眼供養が営まれた。
富木常忍の子日頂上人は、常忍の管理下にあった真間堂(後の弘法寺)にあって、教団の指導にあたったが、日蓮上人入滅後に布教方針をめぐって常忍と対立、1292年(正応5年)から1294年(永仁2年)の2年間、下総を去って日興上人を頼り富士山麓に移った。日頂上人が去った後、常忍は館内に建てた持仏堂を妙蓮山法華寺と号し、自らも日常と改めて、法華寺の初代貫主となり、日蓮遺文をまとめることによって教団指導者としての権威を高めていった。特に大田乗明は、日蓮上人から度々書状を送られ、常忍に次ぐ有力壇越であった。この大田乗明の館は、現在の中山法華経寺の五重塔や本堂のある八幡庄谷中郷中山にあり、後に子の日高上人によって本妙寺とされ、法華寺とともに、中山法華経寺の基礎となった。
1299年(永仁7年)、「日常」と改めて下総の日蓮宗教団の指導者となっていた富木常忍は若宮で亡くなり、遺言によって日高上人が後継者となった。跡を継いだ日高上人は、大田乗明の館内の持仏堂に住み、ここが本妙寺となった。そして、法華寺の貫主を兼ねることによって、法華・本妙寺両山一主制が形成され、ついには1545年(天文14年)の両寺合併統合により、中山法華経寺が正式な寺号として称されることになる。
日蓮宗の檀信徒では日蓮聖人、日蓮大聖人と表記することが多いですが、ここでは一般的な日蓮上人と表記しました。
PR
トラックバック
トラックバックURL: