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2025/06/20 05:58 |
グラマンヘルキャットの空襲をうけた河和海軍航空隊
img_373147_9964795_0.jpg愛知県知多郡美浜町にあった河和(こうわ)海軍航空隊は、1943年(昭和18年)6月、追浜海軍航空隊知多分遣隊として開設され整備教育などを行った第一航空隊と小松島海軍航空隊知多分遣隊が独立改組され、水上機の操縦訓練および実戦配備を目的とした第二航空隊とあり、その設置場所も、第一航空隊が旧古布地区の南側の内陸部丘陵地帯に展開していたのに対し、第二航空隊は旧古布地区およびその北側の海沿いの低地にあった。

この航空隊も、太平洋戦争末期には米軍機による空襲をたびたび受けている。

ブログ「御塩倶楽部」によれば、1945年(昭和20年)7月25日に空母二隻から飛び立った米軍機によって攻撃されたとある(なお、「御塩倶楽部」のURLは以下)。
http://blogs.yahoo.co.jp/iso710ookina/folder/65513.html#34049907

(以下、引用)
米国戦略爆撃調査団報告によると、1945年7月25日 空母レキシントンから「F6F-5グラマンヘルキャット」5機と「F4Uコルセア」2機の合計7機が河和海軍航空隊基地を攻撃。

格納庫と作業場を破壊。

12時に発艦、帰艦16時。


 同日 空母サンジャシントから「F6Fグラマンヘルキャット」10機が河和海軍航空隊基地を攻撃。

写真撮影もした。

この時撮影された航空写真を見ると、第1河和海軍航空隊の機体整備場付近から煙が上がっている。

機体整備場の基礎は、以前も紹介したが今も2列残っている
(引用、ここまで)

このように、1945年7月25日に「F6F-5グラマンヘルキャット」都合15機と「F4Uコルセア」2機の計17機の米軍機に河和航空隊が攻撃されたわけである。

どういうわけか、米国戦略爆撃調査団報告にのっている話が、去年小生の親戚が見に行ってくれて撮ってきた美浜町の河和航空隊展の年表には出ていなかったか、日付がマッチしていないようである。その年表では1945年7月の記事としては、24日朝7時に米軍機P51、グラマン等十数機来襲し、ロケット弾、機銃攻撃(同日、隣接する半田市・武豊町も空襲をうけている)、26日も米軍機によりロケット弾、機銃攻撃とある。10日さかのぼる7月15日にも名古屋方面や三河湾からきた米軍機37機以上が機銃掃射、急降下反復攻撃となっている。つまり、美浜町が掲示していた年表にはない日付で、米軍側の資料では攻撃したとなっており、記録の間違いか、空襲が一つ美浜町の年表には漏れていたのか、検討の余地があろう。

しかし、このような攻撃を受けても、迎撃する水上機は高高度を飛ぶことができず、接敵もままならなかった。
敵機が多く来襲した7月15日の空襲の折にも、わが海軍航空隊が撃墜できたのは一機のみであった。

(写真は第一河和海軍航空隊の機体整備場跡)
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2007/10/08 12:49 | Comments(0) | TrackBack() | 海鷲の墓標

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