最近、自民党のHPを見たら、以下のように書かれている。
「基礎年金番号設計・導入時の大臣は?
【平成8年 3月】
基礎年金番号導入の閣議決定
→ ※菅 直人厚生大臣
【平成8年 4月】
切替業務開始
→ ※菅 直人厚生大臣
【平成8年10月】
基礎年金番号実施関連省令改正
→ ※菅 直人厚生大臣
※現在、民主党の代表代行です!!
平成8年の参議院本会議で、基礎年金番号の実施についての質問に対する答弁で、当時の菅 直人厚生大臣は『徹底した対策を講じ、万全を期してまいりたい』と答えているにもかかわらず、このような事態を招きました。」
びっくりしたなー,もう!(亡き三波伸介さんの古いギャグだが・・・) つまり、菅直人が年金支給漏れ問題の元凶なのだという。では、その当時のその閣議決定とか切替業務開始とかを行った内閣は橋本龍太郎内閣ではなかったのか? 橋本龍太郎も故人になったが、自民党の人じゃなかったの? こんなHP誰が作っているのか知らんが、中学生以下の知能しか持っていないんじゃないのか。
さすがに、菅直人は反論している。まあ、菅さんも以前、未納三兄弟とか大口を叩いて、後で坊主になって四国巡礼という落ちがついたが。今回はあんたの言っていることの方が正しいと思う。以下、「菅直人の今日の一言」より引用。題して「言いがかり」である。
「自民党は名寄せができずに誰のものか分からなくなっている5000万件の『消えた年金記録』について、このような事態になったのは『基礎年金番号設計・導入時の厚生大臣、菅直人にある』という趣旨の記事をHPに載せている。自民党も貧すれば鈍するで情けないことを言うものだ。言いがかり以外の何者でもない。基礎年金番号は1996年私が厚生大臣であった橋本内閣で導入を閣議決定し、翌年の1997年1月、小泉厚生大臣の時に実際に導入された。自民党は基礎年金番号の導入が悪かったとでも言いたいのか。導入時約2億件あった年金記録の名寄せ作業がしっかりできていなかったために、10年後の今日に至っても名寄せが完了せず、5000万件残ったというのが今回の事実関係。」
どっちが、まともなことを言っているか、よく見比べて欲しい。ニュースによれば、森元首相が、やはりこの件について自民党の宣伝の方を批判している。当たり前だ。また、最近の毎日新聞のHP記事をみると、既に配布した上記内容の宣伝ビラは「途中段階のもの」(片山さつき広報局長)で、菅直人の名前を削除して作り直して配布するそうだ。身内から批判がでてきて、選挙にもまずいと思ったのか、今さら、何だという感じ。
この安倍自民党の姿勢は、一事が万事で、やれ慰安婦強制はでっち上げで、慰安婦なんぞ補償もなしに死にやがれ、社会保険庁問題は労働組合に責任があり、その労働組合に支持されている民主党が元凶だ、民主党など野党をぶっつぶせ、市民運動は目障りだから自衛隊に監視させろ、平和憲法は押し付けで、国民主権も気にくわないから、天皇を元首にして改憲、自衛隊を本格的な軍隊に昇格させて徴兵制を導入だ云々、こんな連中に政権を任せていたら、もう日本も「死了」である。
<写真は1939年(昭和14年)当時の広東の行商人の老婆、日本兵を見る視線が鋭い~有田部隊撮影>
安倍内閣の支持率が急落だそうだ。これも、社会保険庁の数々の不始末に加え、年金問題、さらに松岡農林水産大臣の自殺が響いているのだろう。
ここへ来て、安倍首相は年金の五千万件に及ぶ支給漏れを1年以内に照合し、解決すると言っているが、今までずっと放置してきたくせに、どの口でそういえるのだろうか。どうやって1年以内に照合するのか、何も示していないし、明らかに内閣支持率低迷が今度の参院選に響くとみての一時的な言い逃れに聞こえる。
そもそも年金支給漏れの問題は、基礎年金番号を導入する際、年金ごとに違う番号で管理されていた記録を統合する過程で起きた問題である。そして、問題点を指摘されたにも関わらず、その後政府は十年間も放置してきた。やれ、領収書をもってこい、持ってこなければ認めないぞ、というのがお役所の姿勢で、同時に政府の姿勢であった。それは単に名前を勝手に読み間違えたり、入力ミスをしてきたずさんな行政の手続き上の誤りであって、勿論年金加入者の責任ではない。
社会保険庁などの役所は、グリーンピアのような無用の長物をたくさん作っておきながら、年金の事務処理を正そうともしてこなかった。元々、安倍首相自身が、「不安をあおるな」とかマスコミに責任があるかのようなピントのボケた発言を繰り返す一方、加入者が領収書などで立証せよとの姿勢だった。今さらなんだというのが、正直な感想。
結局、「特例法案」を出したのは良いが、国民に展望を示さず、年金その他の問題解決に責任を負っている社保庁を解体し、国の責任を放棄しようとしている。そのくせ、選挙が近くなると、国民には「責任、責任」と、1年以内という期限をきった根拠も明らかにせず、恰好をつけている。こんな二枚舌の無責任政権はもうごめんだ。
<写真は安倍首相の祖父、戦犯・岸信介(東條英機の向かって左に立っている)>
今見てみると、穴状ではなく全体的に草木に覆われているが、斜面に削られたような露出部分があることで、かろうじて人工的なものと分かる程度である。
塹壕だけでなく、防空壕もあったそうであるが、そちらのほうは分からなかった。公園ではなく、住宅となっている部分にあったものか。
こういう軍隊の作業中での事故死や、軍需工場での事故死などは、余り触れられないが、意外に多かったのである。
千葉市内の戦争遺跡をもう少し調査しようとして、千葉空襲の跡地を少し歩いてみた。戦災に関係した石碑を調べようとしたのである。しかし、例えば愛知県豊川市の海軍工廠空襲の慰霊塔や平和記念の像などと比べると、あまり目立たず、石碑自体は大きくても気がつかずに通り過ぎそうな感じがした。一見、空襲の跡地にたつ戦災関連石碑ということが分からない碑のなかで、千葉市街地中心部では川上紀一千葉県知事の名のある戦災復興の碑が唯一戦災が広範囲にあったことを示している。
実際、千葉の市街地の真ん中に空襲があったことも、今の住民は知らない人が多いのだろう。
千葉は船橋と比べると、駅前の道路も幅広く、全体的にゴミゴミした感じではなく、ひろびろしていて、市街地の奥行きが広い感じである。しかし、船橋の本町通りにあるような戦前からの古い商家がある訳でなく、せいぜい昭和30年代くらいの建物があるくらいである。
これは裏を返せば、千葉の市街地の中心部が、空襲ですっかり焼けてしまったためである。
千葉市の本格的な空襲は、1945年(昭和20年)5月8日が第一回目で、これは米軍の他目標広域作戦行動圏内に千葉にあった日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)が入ったためである。その後、6月10日、7月7日と両度の空襲があったが、何れも千葉を直接の目標としたものである。
なお、6月10日、7月7日で空爆を行ったのは、米軍爆撃機B29であることが分かっているが、5月8日のはP51ムスタングであるという説が多いなか、別の艦載機であるという説もあって、はっきりしない。
後で述べるように、人的被害も明確になっておらず、行政資料の数字も複数あって、行政資料の数字も当てにならないのが実態(日本国内の日本国民の被害実態からして、この通りで、いわんや海外の戦争被害者においておや、である)。
空襲目標は前記の日立航空機千葉工場だけでなく、千葉県立千葉高等女学校、千葉師範学校女子部(分散学校工場)、国鉄千葉機関区や千葉、蘇我の住宅地も標的とされた。この蘇我の空襲犠牲者の墓は、日蓮宗福正寺の墓地にあるが、犠牲となった152人の名前が刻まれている。中世において下総国の守護をつとめた千葉氏所縁の千葉神社、千葉寺といった寺社も被災している。
現在、千葉神社は朱塗りの綺麗な社殿となって、元々の場所に建っているが、かつて空襲まではその南に千葉氏歴代の墓のあった大日寺があった。しかし、大日寺は空襲で全焼してしまい、今は西千葉に墓地もろとも移転して、跡地は通町公園となっている。
このように、千葉市街地は空襲によって、大きな被害を受けた。しかし、その被害の実態は、千葉市政要覧昭和22年度版によれば、罹災面積70万坪、罹災戸数8,904戸、罹災人口38,062人、死者890人、負傷者1,500人となっているが、死者の数などは別の行政資料と数字が合わず、千人以下ではなさそうであることが分かっているのみで、戦災を記録、被災度合を確定しようという行政側の公的な努力がされないまま、今日に至っているのが現状である。
戦後復興の陰に隠れた、戦争体験の風化とともに、千葉空襲も忘れ去られようとしている。
先日、流山糧秣廠の引込線が一部残っており、柏の葉の陸軍飛行場跡まで通じていると、ある人から聞いた。また隣接する市の教育委員会の学芸員氏からも、柏の陸軍病院から高野台の高射砲陣地あたりまで、線路が残っていたと教えてもらった。ある学校の敷地に線路跡があり、それを学校の人は子供が遊ぶために遊園地にあるような電車が走っていたのだろうと言っているが、自分はそうは思わない。高野台一帯に軍用の線路があったのだろう、とのことであった。糧秣廠の引込線が高野台まで延びていたというのは、途中台地から低地に下る部分があるため、少々無理があり、流山の糧秣廠と柏の高野台までは繋がっていなかったようである。
しかし、流山糧秣廠については、余り戦争遺跡関連の書籍などでも紹介されておらず、幸いにして流山市の方でいろいろ調査しているので、一度資料集めに行くことにする。
実は、その話を聞くまでは、余り流山方面には興味がなく、松戸の千駄堀にある塹壕群を調べようとしていた。それはそれで調べるのだが、流山の話はぜひ何とかものにしようと思う。
それにしても、小生のHPは『千葉県の戦争遺跡』を謳っているのに、なかなか東葛飾から出られない。東葛飾には、まだまだ戦争遺跡があるからである。東葛が片付いたら、佐倉から成田、それも終わったら佐原から銚子方面へ、また木更津から南房総へと足を伸ばしたい。その前に、東葛飾を何とかせねば。
でも、陸サンの戦争遺跡ばかりである。今まで見てきた遺跡で、海軍のものは行田の無線塔跡くらいで、後は木更津まで行かないと。
(写真は柏市高野台にある高射砲第二連隊の営門)