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2025/12/15 16:18 |
笑止!「博士の独り言」というブログを読んで
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おとつい、本宅の近くでちょっとした宴会があり、奇麗な日本間で床柱を背負っておれば、鯛の尾頭付やら色々な料理が出てつい飲みすぎ。しかも本宅ではなく、わざわざメールを読みにパソコンの置いてある別宅に帰って、そこに泊まったために、昨日の朝は車を駐車場まで取りに電車で一駅、歩いた時間は約30分とあいなった。どうも最近は高級ホテルに泊まってしまったり、高い酒を飲んだりと、贅沢三昧をしてしまって、30分くらい歩くのも薬と思った次第。

昨日は少しブログを書いたり、本を読んだりしておとなしくしていたが、今日は近所で春祭りがあり、車に乗って見に行った。そうしたら、別の町内でも祭りはやっていて、いたるところで交通規制。長居は無用とまた別宅へ。そちらは、住宅地とは言っても元は農地だらけだったようで、今でもあちこちに畑がある。窓を開けっぱなしで寝ていても、何の問題もない。

そうしてのんびり過ごしていたが、インターネットのある記事から、いわゆるネット右翼と思しき「博士の独り言」というブログが滅茶苦茶だというので、ちょっとのぞいてみた。すると、やはり滅茶苦茶。
まず、筆者の名前が書いてない。「Information  管理人: 博士の独り言  「博士の独り言」へようこそ! 」だそうだ。
記事は不二家の悪口を書いたTBSはけしからん、反動教育に立ち向かう教師達はけしからん、カルトはけしからん(これのみには同意)云々。笑ってしまうが、皇国史観研究会などという、たわけた団体とリンクしている。皇国史観研究会とか、いかにも右翼と言いたげなそんなアホな団体あったんやね。

特に、笑止千万なのは、「疑惑『731部隊証言者』序」という記事。大川福松という731部隊の元隊員(衛生伍長)が子持ちの慰安婦を解剖したという生々しい証言に対し、「これは『大川福松氏』個人の言動というよりは、特定国の反日策動を背景とした『虚構』であることは容易に見て取れる。在籍確認と取材確認により、その虚構を完膚なきまでに打ち破る。読者の更なる協力と支援をお願いする!」のだという。つまり、自分が信じたくないことを誰かが言えば、すぐ外国の謀略だという短絡的思考。なんじゃ、こいつ、阿呆ちゃうか?

しかも、元々のニュースの発信元である読売新聞の記事ではなく、それを転載した朝鮮日報が記事の途中で大川氏と書くべきところ、小川氏と誤記したのを良い事に、読売新聞はいい加減だというスリカエをしている。また大川福松という人が「早稲田大で細菌学を学んだ」というのを朝鮮日報が「早稲田大で細菌学を専攻した」としたのを、戦前戦後を通じて早稲田には医学部はないから、大川氏は経歴詐称だという。またそれを載せた読売新聞も事実を確認せず、嘘を掲載したといって攻撃している。

天下の早稲田大学で、細菌に関することを一切教えていないといえるだろうか。早稲田大学と書いてあるが、本科ではなく、早稲田大学高等学院の理系出身者かもしれない。今でも早稲田はビジネスコースとか熱心にやっているが、夜学とか科目履修生のようなものかもしれん。別に専門で細菌学を学んだわけでもないんだろう。あるいは生物学や生理学の一分野で細菌について学んだことを言っているんじゃないだろうか。
この大川さんという元衛生伍長が衛生兵になったのは早稲田大学か高等学院か知らんが、理系の学生であり、最初衛生兵となったのが、幹候志願して、のちに衛生伍長になったのだろう。この人は乙幹だったんじゃないか。
小生海軍で、陸軍のことには少々うといが、大枠では陸軍も海軍もあまり変わるまい。実は、小生の親戚に海軍軍医中将になった者がいる。その人は東京帝大を卒業し、中尉で海軍に入り、海軍軍医学校学生になった。大学出の軍医は、最初から中尉、専門学校卒は少尉であった。その他短現軍医などいたが、所詮衛生兵は一般の兵であり、そのなかには大学出から小学校卒まで色々いた。当時、将校、下士官、馬、兵隊といわれ、馬以下の存在に甘んじられなかった一部は幹候を志願したものである。

当時の軍隊、特に外地では滅茶苦茶なことを平気でやり、看護婦や女子挺身隊員(彼らは立派な軍属である!)、さらにフィリピン上流階級の令嬢や白人女子を含む民間人を強姦するなども珍しくなかった(若尾文子が輪姦される従軍看護婦役を映画で演じたが、実際に軍隊内部での、あるいは外地民間人に対する強姦事件は後をたたず、香港の病院では看護婦が多数強姦され、その話がすぐに伝わったシンガポールの病院でも後に看護婦が悉く虐殺されたという)。731部隊自体、石井四郎陸軍軍医中将という特異な性格をもった異常の指揮官のもとで、異常なことを平然としていたのだから、衛生伍長が生体解剖するようなことも珍しくなかったのであろう。当時15歳の少年が、解剖を行ったという証言もある。

731部隊とは、中国黒龍江省ハルビン市郊外の平房区を特別軍事区とし、6キロ平方メートルにわたる広大な施設をもち、細菌戦、化学生物兵器の研究を専門で行った特殊な部隊である。731部隊の設置にあたっては、大日本陸軍命令(大陸命)が出され、その設立自体、天皇ヒロヒトを頂点とする日本軍の組織的な犯罪であった。終戦直前の1945年8月13日、証拠いん滅のため731部隊本部は爆破され、残されていた捕虜は全員が毒殺などによって虐殺された。その死体が累々とした状況は、やはり運転手をしていた人の目撃証言がある。しかし、連合軍のなかで戦後日本に駐留、占領した米軍は、731部隊が人体実験の結果得たデータと引き替えに、731部隊の戦争犯罪を問わなかった。
だが、天網恢恢である。戦争責任は、そのままにされるはずもない。

まあ、兵隊の人権を認めない軍隊が、中国人にどんなことをしたか、目を覆いたくなるほど天魔悪鬼の如き非道な話はいろいろある。

要はそういう文脈で、読売の記事を読むべきである。「博士の独り言」氏は、早稲田大学の本科を卒業したかどうか分からない大川福松氏の経歴を戸籍調べのように調べて、卒業生でなければ鬼の首を取ったように731部隊の慰安婦の解剖もなかったといいたいのだろうが、論理のスリカエで実に不毛。
戦争犯罪を擁護し、弁護する者は、その共犯である。共同正犯は、主犯と罪は同じでなければならない。

大川福松氏など731部隊の生き残り隊員の罪は、過去に生体実験や捕虜の殺害を行ったことではなく、それを戦後幾年たっても世に明らかにしなかったことである。口止めされていたり、自己保身のため、証言しなかった気持ちは十分わかるが、一歩踏み出す勇気が必要であった。
それを阻む連中は、ジュネーブ条約を全く無視して、捕虜を惨殺した戦争犯罪人となんら変わらず、仏罰をうけるであろう。
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2007/10/08 13:06 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
「野党は文句ばかり」ではなく、「安倍首相は嘘ばかり」
gooニュースに以下の記事が載っていた。

「首相『野党は文句ばかり』と批判 福島遊説で、鳩山氏と火花
2007年4月14日(土)19:54 (共同通信)

 安倍晋三首相は14日、参院福島、沖縄両選挙区補選の告示後初めて遊説、福島県内4カ所で街頭演説した。民主党の鳩山由紀夫幹事長も同県内を回り、火花を散らした。首相は福島市で『野党は格差、格差と文句を言うばかり』と民主党などを厳しく批判、構造改革を推進し景気底上げを図る路線の正当性を訴えた。格差問題について『フリーターらが正規の職に就けるよう再チャレンジ支援を進めていく』と表明。」

その格差を放置、助長してきたのは、お前さんがたではないのかい。不公正税制は正されるどころか、ますますひどくなっている。消費税という低所得者に不利な税については税率アップが過去にされたし、今後もされようとしている。
それを民主党などの野党にあたるのは、お門違いも良い所。このように、この安倍という人間は、論理的思考力が欠落しているのではないか。

「慰安婦の強制がなかった」とか、そもそも軍が慰安婦の募集や移送、慰安所の設営、管理にいたるまで関わっているのに、「軍は慰安婦と一切関係ございません、だから慰安婦の補償なんか一切関知しません」と嘘八百並べているのは、自分の方じゃないか。

「野党は文句ばかり」ではなく、「安倍首相は嘘ばかり」である。

カルト安倍よ、統一協会と関係がないというなら、その証拠を出してみよ。嘘ばかり言うな、卑怯者!

<写真は陸軍南支派遣軍有田部隊が広東・恵州で撮影した中国人の行商人>

2007/10/08 13:04 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
バンコックの雑踏にて
タイ、バンコックの町は暑い。ドンムアン空港に飛行機で降り立てば、眼鏡のレンズは曇り、熱帯の世界に突入する。空港からハイヤーでホテルに向かう途中、運転手が高速道路を使っていいかと聞くので、OKといえば、高速道路を飛ばすこと、飛ばすこと。途中、やけに大きくHINOと書いたトラックを見かけるが、日野自動車をそんなに強調したいのか。あるいは偽物かもしれない。高速道路なのに、ウインカーも出さずに車線変更してくる車、危険きわまりない。

img_373168_2602765_0.jpgバンコックの道路は年がら年中、工事中である。そのため、ホコリがいたるところに舞っている。また、バンコック名物は道路の渋滞、これはどの国よりも激しいかもしれん。高速から下りるころには、渋滞が始まってしまい、なかなか前に進まず。ふと、窓から景色をみれば、廃屋と思えた家から何人か出てきたのだが、傾いた家に何家族かで住んでいる様子であった。
しばらく走って、車が信号で止まると、いきなり道路を斜め横断してきた小さな男の子が車の窓を拭き始め、チップをよこせという(むろん車道を歩行者が渡って良い筈がない)。ダメダメと手を振ると、今度は別のがやってきた。見ると手に花輪というか、ジャスミンの花を数珠繋ぎしたもの(プアンマーライというらしい)を持ってきた。私の友人がいくらかと聞いたが、20バーツくらいだったか。友人があれこれ言っている間に、信号が変わり、友人はその花輪をてにすることができず、悔しがっていた。

ホテルは日本系のホテルであったため、日本人スタッフもいるのだが、大多数は現地の人である。客室はやけに広く、20畳ほどもあったろうか。高級ホテルならウエルカムフラワーなどあったのだろうが、一般のホテルではそのようなものはなく、簡単な応接セットがあったのと、もちろんベッドがあり、明らかに人工大理石を貼り付けた浴室兼トイレがあった。窓から見るバンコック市街は、町の中心ではなく、ちょっと外れの風景、特にビルがまばらに建っているのだが、そのビルの間に見える野原に人が住んでいる様子でバラックがたち、ガスボンベが置いてある。その野原の横には運河があり、小さな船が行きかっている。まるで終戦直後の日本のような場所に、ところどころ近代的なビルが建っているような、新旧混在というか、変な光景であった。

そのホテルでは、日本から同行した友人とホテル内の喫茶コーナーへ行った。友人はケーキセットを頼んだのだが、ケーキは何があるか聞いていた。現地人のボーイは「チョコラ、ショコラ、・・・」とたどたどしい英語で説明していたのだが、私はボーイが可哀そうになり、「ケーキなんか何でも良いじゃないか」と口をはさんだ。

しばらくホテルで休んでいると、現地に住んでいる友人がボルボに乗ってホテルに来た。一緒にホテル内の日本料理屋へ行き、酒を飲んだ。友人は現地人の運転手がいるので、飲んで帰っても良いのである。

翌日、その現地の友人と待ち合わせ、バンコックの街へ。歩いて観光ではなく、友人のボルボ車を現地人で英語のできる運転手さんが運転して案内してくれるという。王宮、エメラルド寺院、黄金の寺などに行く。途中、ホームセンターのような場所に寄った。そこで、例の友人が気にしていたジャスミンの花輪にまた出くわした。友人は、いったい何をするためのものだろうかと、まだあれこれ言っていた。そのホームセンターの駐車場に車をとめ、現地人の運転手さんは休んでいたのに、われわれが乗っているときには冷房をつけていたのだが、みると冷房を切った状態で、窓をあけて休んでいる。現地の人にとっては、30度くらいでも涼しく感じ、それ以下の気温では寒いのだそうだ。
昼食は、バンコックから暫く車でいったレストランでトムヤンクンなどを食べた。とにかく、日本で食べるタイ料理の数倍からい。唐辛子は赤いのではなく、青いのが曲者。もし、これを食べてからくて水をのんだら、火に油を注いだように、口のなかに火が燃え盛った状態になる。

また、その日の夕食は、中華料理屋でフカヒレやいろいろご馳走を食べた。しかし、あらゆる料理に香草(パクチー)が乗っている。フカヒレなんか何も乗せない方がいいと思うのだが、ちょっと邪魔であったかもしれぬ。しかし、高級な店であったため、いるお客は白人と日本人だけ、現地の人は高くて、それこそ一月分の収入を一食で使ってしまうことになるので、なかなか来られないそうだ。

翌日も、友人とバンコックへ。ちょうどボールペンのインキが出なくなったので、デパートでボールペンを買うことにした。伊勢丹があり、そこで買い物。店の前でパフォーマンスをしていて、若い女性が歌と踊りでなにかの宣伝をしていた。タイ語はまったく分からないので、何のはなしか知らないが、ときおり「ターイ」というので、タイとどこかの試合の宣伝のような。デパートでは売り子の女性は、みな現地人である。文房具売り場で、ボールペンを捜していると言い、パーカーの安いものを買うことにした。それで書いてみると、青いインキだったので、黒のが欲しいというと、その店員さん、何本か全く違うタイプのボールペンを出してきて、インキを確認すると、その別のボールペンから芯を取り出し、パーカーのボールペンのものと交換したのであった。「えー、嘘だろ」と思いつつ、黒いインキのパーカーボールペン(もはや別物)を買ったのである。

その日の夜は、チャオプラヤ川沿いの高級ホテルに飲みに行った。ホテルのバーのようなところで、いろいろカクテルを注文する。バーの支配人のような年配の男性は、テキパキと仕事をこなしていた。注文を受けると、指をパチンと鳴らして、厨房へ伝え、身のこなしもさすがプロという感じであった。チャオプラヤ川の夜景は綺麗であった。しかし、昼間みると隅田川と対して変わらない、あまりきれいな川ではないのだそうだ。
最初気付かなかったが、そのバーの年配の男性は、少し足を引きずっていた。そして、それを懸命にかくそうとしていた。

いばらく飲んでいると、運転手の男性が、ボルボ車が故障したと言ってきた。何事かと聞くと、ウインカーを倒すと左右に点滅するパネルで、常時上下の矢が点滅するという。車に乗りこんでみると、たしかに上下の矢が点滅する。上下に矢が出るというのも、初めてみたが、車自体はちゃんと走るのであった。
その車で送ってもらい、宿泊先のホテルへ。窓から見ると、ディスコかなにかのビルの派手な電飾が、点滅していた。

翌日、朝食をとると、日本へ帰るため、また空港までタクシーで向かう。朝は道路もすいていて、やけに早く空港についた。みやげ物などを見ながら、時間をつぶし、90%以上が中国人の乗客という中国の飛行機で香港まで行き、香港から日本へ帰った。
二泊三日の強行軍であったが、バンコックの素顔を垣間見た気がした。自分としては、足の悪いのを隠しながら仕事をしていた、バーの支配人のことがなぜか忘れられない。

(これは2006年以前にバンコックを訪問したときの記録であり、現在ドンムアン空港は国際線には使用されていません)

2007/10/08 13:02 | Comments(0) | TrackBack() | 国際特集
河和海軍航空隊のズンドコ節
愛知県は知多半島の南端近く、知多郡美浜町河和(こうわ)から古布(こふ)、矢梨にかけて、太平洋戦争末期に水上機の基地として存在した、河和海軍航空隊で歌われていたズンドコ節。単純だが、分かりやすい詞で、隊員の真情がよくあらわれている。


     ここで別れちゃ未練がのこる  

     せめて河和の駅までも

     送りましょうか 送られましょか

     可愛いあの娘の目に涙

 

               今日も暮れゆく河和の町を

               肩で風切る小意気なすがた

               あいつは誰だとよくよく見れば

               上陸がえりの士官さん

    

                         エスになるなよ堅気になれと

                         やさし母ちゃんが泣いて言うた

                         だけど私は堅気にゃなれぬ

                         可愛いインチに会えぬもの


 *註 エス:海軍の隠語で芸者のこと
    インチ:馴染みの芸者、ここではintimateでお馴染みさんという意味

2007/10/08 12:59 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
帰ってきた天下の碁盤
碁は白と黒の碁石を限られたスペースである碁盤の上において、攻防をおこなう、まさに小さな碁盤の上で展開される作戦、駆け引きの世界。
天下人である豊臣秀吉と徳川家康が、碁の対局をしたと伝えられる、碁盤が京都の大徳寺・龍源院にある。碁盤の側面には金蒔絵がほどこされ、碁笥には豊臣の桐の紋と徳川の三つ葉葵の紋が描かれている。

京都の大徳寺・龍源院は、方丈前庭の「一枝坦」(いっしだん)、北庭の「竜吟庭」、東にある壺庭「東滴壺」など庭園が綺麗で、大徳寺のなかでも古いことで有名な塔頭である。小生、この大徳寺が好きで、若い時にはよく行ったものである。方丈の前の庭をしばらく見ていたり、茶室に座ってみたり、しばし世の塵を忘れるような気がした。大徳寺には、龍源院のほかに、高桐院、大仙院、総見院、などの二十あまりの塔頭がある。そもそも大徳寺は、正和4年(1315年)の創建以来、臨済禅の座禅修行に専念したものの、享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467年-1477年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力をえて復興、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、茶の湯や書道などとも縁が深い。

龍源院によれば、
「本院は大徳寺南派の本庵で、文亀2年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧を開山として、能登(石川県)守護畠山義元が創建したものである。
 方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示している。本尊釈迦如来像は建長2年(1250)行心の作、以上いずれも重要文化財に指定されている。そのほか、方丈襖絵に室町時代等春筆「列仙の図」がある。庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥作と伝えられる須弥山式枯山水の名園、方丈東庭は珍しい壺石庭で有名。また、方丈前庭にはもと大宮御所にあった桃山型石燈籠があり、さらに聚楽第の礎石を配した阿・吽(あ・うん)の石庭等もある。
 寺宝には、他に豊臣秀吉、徳川家康が対局した四方蒔絵の碁盤、天正11年(1583)在銘の種子島銃などがある。」とのこと。

実は、この碁盤一度盗難にあっている。2005年3月3日の碁界ニュースに、以下のようにある。

「秀吉の碁盤や重文発見・奈良県警、元古物商ら逮捕
奈良県警捜査一課などは3日までに、窃盗などの疑いで大阪市城東区、会社員福田信三容疑者(61)、韓国籍の大阪市西成区、元古物商高成一容疑者(57)ら5人を逮捕、1人を指名手配し、京都市北区の大徳寺で昨年4月、盗まれていた碁盤や火縄銃などを発見、押収した。
 碁盤は金粉で四季の風景を描き、豊臣秀吉と徳川家康が対局に使ったと伝わる品。奈良県吉野町の吉水神社で盗まれた室町時代の鉄製刀つば「鉄鍔(てつつば)」(国の重要文化財)なども見つかった。
 グループは福田容疑者ら2人が盗んだ品を高容疑者らが買い取り、転売するなどしたとみられる。捜査一課などはグループで貴重な文化財を狙って盗み、売りさばいていたとみて追及する。
 碁盤などは高容疑者の自宅や高知市玉水町、ホテル経営斎城直好容疑者(54)=盗品等有償譲り受け容疑で逮捕=のホテルなどで見つかった。
 調べでは、福田容疑者は昨年4月、大徳寺塔頭(たっちゅう)龍源院の展示室に侵入、碁盤や火縄銃など7点を盗むなどした疑い。
 吉水神社は昨年10月、展示していた鉄鍔や蒔絵(まきえ)箱など5点が盗まれた。」

つまり、1年ほども、天下人の碁盤が大徳寺龍源院を離れ、また帰ってきたということになる。盗んだ連中は、まことにけしからんが、どこか外国の富豪とか出てこないようなところに売られていなくて良かった。しかし、よく帰ってきたものである。

なお、写真は龍源院の碁盤(左)、龍源院の「一枝坦」(右)。img_373168_1701969_0.jpgimg_373168_1701969_1.jpg


2007/10/08 12:56 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題

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