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2025/06/20 08:44 |
どの口で「責任」と言うのかメッキが剥げた安倍内閣
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安倍内閣の支持率が急落だそうだ。これも、社会保険庁の数々の不始末に加え、年金問題、さらに松岡農林水産大臣の自殺が響いているのだろう。

ここへ来て、安倍首相は年金の五千万件に及ぶ支給漏れを1年以内に照合し、解決すると言っているが、今までずっと放置してきたくせに、どの口でそういえるのだろうか。どうやって1年以内に照合するのか、何も示していないし、明らかに内閣支持率低迷が今度の参院選に響くとみての一時的な言い逃れに聞こえる。

そもそも年金支給漏れの問題は、基礎年金番号を導入する際、年金ごとに違う番号で管理されていた記録を統合する過程で起きた問題である。そして、問題点を指摘されたにも関わらず、その後政府は十年間も放置してきた。やれ、領収書をもってこい、持ってこなければ認めないぞ、というのがお役所の姿勢で、同時に政府の姿勢であった。それは単に名前を勝手に読み間違えたり、入力ミスをしてきたずさんな行政の手続き上の誤りであって、勿論年金加入者の責任ではない。

社会保険庁などの役所は、グリーンピアのような無用の長物をたくさん作っておきながら、年金の事務処理を正そうともしてこなかった。元々、安倍首相自身が、「不安をあおるな」とかマスコミに責任があるかのようなピントのボケた発言を繰り返す一方、加入者が領収書などで立証せよとの姿勢だった。今さらなんだというのが、正直な感想。

結局、「特例法案」を出したのは良いが、国民に展望を示さず、年金その他の問題解決に責任を負っている社保庁を解体し、国の責任を放棄しようとしている。そのくせ、選挙が近くなると、国民には「責任、責任」と、1年以内という期限をきった根拠も明らかにせず、恰好をつけている。こんな二枚舌の無責任政権はもうごめんだ。

<写真は安倍首相の祖父、戦犯・岸信介(東條英機の向かって左に立っている)>
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2007/10/08 13:17 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
松戸の千駄堀塹壕群と戦時下のある事故
松戸の戦争遺跡を追加調査するために、八柱から千駄堀をたずねた。八柱には陸軍の境界標石がたくさんあり、以前写真を撮りにきたことがあるし、松戸市立博物館には何度か寄せてもらっているので、場所はすぐに分かった。千駄堀は、戦争末期に塹壕や防空壕などがさかんに掘られた場所であり、その場所は、現在「二十世紀の森と広場」になっていて、おおかた公園として整備されている。

塹壕は旧陸軍が1945年(昭和20年)2月から終戦にいたるまで千駄堀のあちこちに掘ったもので、当時松戸には現松戸高校の松戸高等女学校には野戦重砲兵第十九連隊、松戸農業専門学校には独立工兵第六十二大隊が配備されており、第九十三師団司令部、とそれに師団に属する通信隊、輜重第九十三連隊なども駐屯していた。そのどの部隊が、塹壕を掘ったかも定かではないが、千駄堀の山林を弾薬や食糧などの隠し場所として目をつけた陸軍が、この地にいくつかの塹壕を掘り、弾薬等を保管しようとした。

戦後60年以上たっているために、自然崩落や木の枝や木の葉の堆積によって、塹壕跡はかなり分かり難くなっている。その痕跡は「二十世紀の森と広場」の「つどいの広場」から「みどりの里」に向かう台地斜面にあり、西が出入り口で東に向かって掘ったとされる。
今見てみると、穴状ではなく全体的に草木に覆われているが、斜面に削られたような露出部分があることで、かろうじて人工的なものと分かる程度である。
塹壕だけでなく、防空壕もあったそうであるが、そちらのほうは分からなかった。公園ではなく、住宅となっている部分にあったものか。

公園の管理事務所にも、聞いてみたが、「軍が塹壕を掘ったとか、弾薬庫があったとかいうが、確証がない。場所も特定できない。」という返事であった。公園の管理をしている人といえども、役人には違いないのであろう、いかにも役人的な答えである。「『不明』とか言っていないで、すぐ近くなんだから調査したらいいじゃないか」と、いつものように言いそうになったが、この人たちは学芸員でもなければ、市の要職にある人たちでもないので、言うのはやめた。

まあ、こういうことはしょっちゅうあるので、さほど気が滅入るというほどではないが。

それはともかく、この塹壕については『千葉県の戦争遺跡をあるく』(千葉歴史教育者協議会)によれば、掘っている際に、土砂が崩れ二人の兵士が生き埋めにされて、なくなったそうである。その名前や階級も分からないという。戦時下の痛ましい事故であるが、そのような例は全国各地にある。
こういう軍隊の作業中での事故死や、軍需工場での事故死などは、余り触れられないが、意外に多かったのである。

帰りがけ、ふと見ると公園に藤棚があった。奇麗に藤の花が咲いている。最近、若い人も含めて、頭が固い、アホな連中(安倍総理などその筆頭か)に腹をたてており、そこへ公園の管理事務所の前述の応対があったため、さらに気がムシャクシャしたが、藤の花を見て何となく気が和んだ。


2007/10/08 13:15 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
千葉市内の戦災関連石碑をめぐる

img_373168_4978962_0.jpg千葉市内の戦争遺跡をもう少し調査しようとして、千葉空襲の跡地を少し歩いてみた。戦災に関係した石碑を調べようとしたのである。しかし、例えば愛知県豊川市の海軍工廠空襲の慰霊塔や平和記念の像などと比べると、あまり目立たず、石碑自体は大きくても気がつかずに通り過ぎそうな感じがした。一見、空襲の跡地にたつ戦災関連石碑ということが分からない碑のなかで、千葉市街地中心部では川上紀一千葉県知事の名のある戦災復興の碑が唯一戦災が広範囲にあったことを示している。

実際、千葉の市街地の真ん中に空襲があったことも、今の住民は知らない人が多いのだろう。

千葉は船橋と比べると、駅前の道路も幅広く、全体的にゴミゴミした感じではなく、ひろびろしていて、市街地の奥行きが広い感じである。しかし、船橋の本町通りにあるような戦前からの古い商家がある訳でなく、せいぜい昭和30年代くらいの建物があるくらいである。
これは裏を返せば、千葉の市街地の中心部が、空襲ですっかり焼けてしまったためである。

千葉市の本格的な空襲は、1945年(昭和20年)5月8日が第一回目で、これは米軍の他目標広域作戦行動圏内に千葉にあった日立航空機千葉工場(現:JFEスチール東日本製鉄所・千葉工場)が入ったためである。その後、6月10日、7月7日と両度の空襲があったが、何れも千葉を直接の目標としたものである。
なお、6月10日、7月7日で空爆を行ったのは、米軍爆撃機B29であることが分かっているが、5月8日のはP51ムスタングであるという説が多いなか、別の艦載機であるという説もあって、はっきりしない。
後で述べるように、人的被害も明確になっておらず、行政資料の数字も複数あって、行政資料の数字も当てにならないのが実態(日本国内の日本国民の被害実態からして、この通りで、いわんや海外の戦争被害者においておや、である)。

空襲目標は前記の日立航空機千葉工場だけでなく、千葉県立千葉高等女学校、千葉師範学校女子部(分散学校工場)、国鉄千葉機関区や千葉、蘇我の住宅地も標的とされた。この蘇我の空襲犠牲者の墓は、日蓮宗福正寺の墓地にあるが、犠牲となった152人の名前が刻まれている。中世において下総国の守護をつとめた千葉氏所縁の千葉神社、千葉寺といった寺社も被災している。
現在、千葉神社は朱塗りの綺麗な社殿となって、元々の場所に建っているが、かつて空襲まではその南に千葉氏歴代の墓のあった大日寺があった。しかし、大日寺は空襲で全焼してしまい、今は西千葉に墓地もろとも移転して、跡地は通町公園となっている。

このように、千葉市街地は空襲によって、大きな被害を受けた。しかし、その被害の実態は、千葉市政要覧昭和22年度版によれば、罹災面積70万坪、罹災戸数8,904戸、罹災人口38,062人、死者890人、負傷者1,500人となっているが、死者の数などは別の行政資料と数字が合わず、千人以下ではなさそうであることが分かっているのみで、戦災を記録、被災度合を確定しようという行政側の公的な努力がされないまま、今日に至っているのが現状である。

戦後復興の陰に隠れた、戦争体験の風化とともに、千葉空襲も忘れ去られようとしている。


2007/10/08 13:14 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
東葛飾の戦争遺跡はまだまだある
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先日、流山糧秣廠の引込線が一部残っており、柏の葉の陸軍飛行場跡まで通じていると、ある人から聞いた。また隣接する市の教育委員会の学芸員氏からも、柏の陸軍病院から高野台の高射砲陣地あたりまで、線路が残っていたと教えてもらった。ある学校の敷地に線路跡があり、それを学校の人は子供が遊ぶために遊園地にあるような電車が走っていたのだろうと言っているが、自分はそうは思わない。高野台一帯に軍用の線路があったのだろう、とのことであった。糧秣廠の引込線が高野台まで延びていたというのは、途中台地から低地に下る部分があるため、少々無理があり、流山の糧秣廠と柏の高野台までは繋がっていなかったようである。

しかし、流山糧秣廠については、余り戦争遺跡関連の書籍などでも紹介されておらず、幸いにして流山市の方でいろいろ調査しているので、一度資料集めに行くことにする。

実は、その話を聞くまでは、余り流山方面には興味がなく、松戸の千駄堀にある塹壕群を調べようとしていた。それはそれで調べるのだが、流山の話はぜひ何とかものにしようと思う。

それにしても、小生のHPは『千葉県の戦争遺跡』を謳っているのに、なかなか東葛飾から出られない。東葛飾には、まだまだ戦争遺跡があるからである。東葛が片付いたら、佐倉から成田、それも終わったら佐原から銚子方面へ、また木更津から南房総へと足を伸ばしたい。その前に、東葛飾を何とかせねば。
でも、陸サンの戦争遺跡ばかりである。今まで見てきた遺跡で、海軍のものは行田の無線塔跡くらいで、後は木更津まで行かないと。

(写真は柏市高野台にある高射砲第二連隊の営門)

2007/10/08 13:09 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題
笑止!「博士の独り言」というブログを読んで
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おとつい、本宅の近くでちょっとした宴会があり、奇麗な日本間で床柱を背負っておれば、鯛の尾頭付やら色々な料理が出てつい飲みすぎ。しかも本宅ではなく、わざわざメールを読みにパソコンの置いてある別宅に帰って、そこに泊まったために、昨日の朝は車を駐車場まで取りに電車で一駅、歩いた時間は約30分とあいなった。どうも最近は高級ホテルに泊まってしまったり、高い酒を飲んだりと、贅沢三昧をしてしまって、30分くらい歩くのも薬と思った次第。

昨日は少しブログを書いたり、本を読んだりしておとなしくしていたが、今日は近所で春祭りがあり、車に乗って見に行った。そうしたら、別の町内でも祭りはやっていて、いたるところで交通規制。長居は無用とまた別宅へ。そちらは、住宅地とは言っても元は農地だらけだったようで、今でもあちこちに畑がある。窓を開けっぱなしで寝ていても、何の問題もない。

そうしてのんびり過ごしていたが、インターネットのある記事から、いわゆるネット右翼と思しき「博士の独り言」というブログが滅茶苦茶だというので、ちょっとのぞいてみた。すると、やはり滅茶苦茶。
まず、筆者の名前が書いてない。「Information  管理人: 博士の独り言  「博士の独り言」へようこそ! 」だそうだ。
記事は不二家の悪口を書いたTBSはけしからん、反動教育に立ち向かう教師達はけしからん、カルトはけしからん(これのみには同意)云々。笑ってしまうが、皇国史観研究会などという、たわけた団体とリンクしている。皇国史観研究会とか、いかにも右翼と言いたげなそんなアホな団体あったんやね。

特に、笑止千万なのは、「疑惑『731部隊証言者』序」という記事。大川福松という731部隊の元隊員(衛生伍長)が子持ちの慰安婦を解剖したという生々しい証言に対し、「これは『大川福松氏』個人の言動というよりは、特定国の反日策動を背景とした『虚構』であることは容易に見て取れる。在籍確認と取材確認により、その虚構を完膚なきまでに打ち破る。読者の更なる協力と支援をお願いする!」のだという。つまり、自分が信じたくないことを誰かが言えば、すぐ外国の謀略だという短絡的思考。なんじゃ、こいつ、阿呆ちゃうか?

しかも、元々のニュースの発信元である読売新聞の記事ではなく、それを転載した朝鮮日報が記事の途中で大川氏と書くべきところ、小川氏と誤記したのを良い事に、読売新聞はいい加減だというスリカエをしている。また大川福松という人が「早稲田大で細菌学を学んだ」というのを朝鮮日報が「早稲田大で細菌学を専攻した」としたのを、戦前戦後を通じて早稲田には医学部はないから、大川氏は経歴詐称だという。またそれを載せた読売新聞も事実を確認せず、嘘を掲載したといって攻撃している。

天下の早稲田大学で、細菌に関することを一切教えていないといえるだろうか。早稲田大学と書いてあるが、本科ではなく、早稲田大学高等学院の理系出身者かもしれない。今でも早稲田はビジネスコースとか熱心にやっているが、夜学とか科目履修生のようなものかもしれん。別に専門で細菌学を学んだわけでもないんだろう。あるいは生物学や生理学の一分野で細菌について学んだことを言っているんじゃないだろうか。
この大川さんという元衛生伍長が衛生兵になったのは早稲田大学か高等学院か知らんが、理系の学生であり、最初衛生兵となったのが、幹候志願して、のちに衛生伍長になったのだろう。この人は乙幹だったんじゃないか。
小生海軍で、陸軍のことには少々うといが、大枠では陸軍も海軍もあまり変わるまい。実は、小生の親戚に海軍軍医中将になった者がいる。その人は東京帝大を卒業し、中尉で海軍に入り、海軍軍医学校学生になった。大学出の軍医は、最初から中尉、専門学校卒は少尉であった。その他短現軍医などいたが、所詮衛生兵は一般の兵であり、そのなかには大学出から小学校卒まで色々いた。当時、将校、下士官、馬、兵隊といわれ、馬以下の存在に甘んじられなかった一部は幹候を志願したものである。

当時の軍隊、特に外地では滅茶苦茶なことを平気でやり、看護婦や女子挺身隊員(彼らは立派な軍属である!)、さらにフィリピン上流階級の令嬢や白人女子を含む民間人を強姦するなども珍しくなかった(若尾文子が輪姦される従軍看護婦役を映画で演じたが、実際に軍隊内部での、あるいは外地民間人に対する強姦事件は後をたたず、香港の病院では看護婦が多数強姦され、その話がすぐに伝わったシンガポールの病院でも後に看護婦が悉く虐殺されたという)。731部隊自体、石井四郎陸軍軍医中将という特異な性格をもった異常の指揮官のもとで、異常なことを平然としていたのだから、衛生伍長が生体解剖するようなことも珍しくなかったのであろう。当時15歳の少年が、解剖を行ったという証言もある。

731部隊とは、中国黒龍江省ハルビン市郊外の平房区を特別軍事区とし、6キロ平方メートルにわたる広大な施設をもち、細菌戦、化学生物兵器の研究を専門で行った特殊な部隊である。731部隊の設置にあたっては、大日本陸軍命令(大陸命)が出され、その設立自体、天皇ヒロヒトを頂点とする日本軍の組織的な犯罪であった。終戦直前の1945年8月13日、証拠いん滅のため731部隊本部は爆破され、残されていた捕虜は全員が毒殺などによって虐殺された。その死体が累々とした状況は、やはり運転手をしていた人の目撃証言がある。しかし、連合軍のなかで戦後日本に駐留、占領した米軍は、731部隊が人体実験の結果得たデータと引き替えに、731部隊の戦争犯罪を問わなかった。
だが、天網恢恢である。戦争責任は、そのままにされるはずもない。

まあ、兵隊の人権を認めない軍隊が、中国人にどんなことをしたか、目を覆いたくなるほど天魔悪鬼の如き非道な話はいろいろある。

要はそういう文脈で、読売の記事を読むべきである。「博士の独り言」氏は、早稲田大学の本科を卒業したかどうか分からない大川福松氏の経歴を戸籍調べのように調べて、卒業生でなければ鬼の首を取ったように731部隊の慰安婦の解剖もなかったといいたいのだろうが、論理のスリカエで実に不毛。
戦争犯罪を擁護し、弁護する者は、その共犯である。共同正犯は、主犯と罪は同じでなければならない。

大川福松氏など731部隊の生き残り隊員の罪は、過去に生体実験や捕虜の殺害を行ったことではなく、それを戦後幾年たっても世に明らかにしなかったことである。口止めされていたり、自己保身のため、証言しなかった気持ちは十分わかるが、一歩踏み出す勇気が必要であった。
それを阻む連中は、ジュネーブ条約を全く無視して、捕虜を惨殺した戦争犯罪人となんら変わらず、仏罰をうけるであろう。

2007/10/08 13:06 | Comments(0) | TrackBack() | 閑話休題

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