現在は柏市になっている旧沼南町大井という場所は、旧沼南町でも比較的早くから開けた地区である。それは、手賀沼・大津川の水運をバックに、商業活動が早くから行われてきたためとされる。また、手賀沼は、本来風光明媚だったところで、手賀沼に面した我孫子などには志賀直哉をはじめとする文人や芸術
家が多くすんだ。
福満寺は、相当な古寺であるのだが、このお寺の正式名称は教永山福満寺積善寺という。ご本尊は阿弥陀如来で、天台宗の寺である。奈良時代に尊慶によって開山されたと伝えられるが、確か以前発掘で唐三彩か何か出ていたと思う。
しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。将門伝説は、市川大野にもあるし、このような手賀沼周辺にもある。
下総では北へ行くほど将門に同情的なものが多く、市川でも本八幡あたりに南下すると、将門を調伏する側の伝説(菅野様、八幡の藪知らず)が出てくる。また、成田山は将門を調伏するための祈祷を行った寺として、将門に同情的な地域の人は成田山には参詣しないという風習も残っている。
そのほか、福満寺境内には、「これいったい何?」と思う位、ごてごてと、いろんなものがあるが、住職の人柄を思えば、まあ仕方がないかと思ってしまう。
なお、福満寺山門の写真は、上記ブログ筆者、森-CHANより借用した
たとえば、「沖縄戦の記憶」というHP(下記URL)には、以下のような記事がある。
集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。
周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。
2007年10月04日19時01分
その後、6月20日の理事会で、小林正(元社会党参院議員:統一協会の「天宙平和連合祖国郷土還元日本大会」横浜大会に出席)が会長に選出され、高池勝彦は藤岡・福地と共に副会長となった。同日、桜井裕子(元世界日報記者:統一協会員)が新理事に選ばれた。
なお、退会した八木は、2006年6月30日、つくる会と袂を分かつ形で「日本教育再生機構」を設立した。さきに退会した西尾幹二は八木について自分のブログ(「西尾幹二のインターネット日録」2006年4月8日)で以下のように述べた。
怪メール事件は2月27日と3月28日の二つの理事会の間に起こり、『つくる会』を揺さぶった。それが問題である。会が八木=宮崎プラス四人組のグループとそれ以外の勢力に完全に割れてしまっていることは、この問題を考える前提である。(略)
3月20日福地惇理事は八木、宮崎両氏と会談した。八木氏は自分の方から『警察公安情報』の存在を知っているか、と問うた。福地氏は『単なる噂ではないか、自分は見ていない。それは何処に根拠があるのか』と問い質した。八木氏は『単なる噂ではない。公安情報を正式につかんでいる。警察公安と自分はパイプがあって、これには確かな証言がある』と自信ありげに、得意げに強調した。 (略) 氏は『公安のイヌ』になり下がっているのである。(以下略)」
会長/藤岡信勝(拓殖大学教授)
副会長/福地惇(大正大学教授)
理事/市田ひろみ(服飾評論家)、九里幾久雄(浦和大学名誉教授)、高池勝彦(弁護士 百人斬り競争訴訟弁護団長)、高森明勅(拓殖大学客員教授)、吉永潤(神戸大学助教授)、石井昌弘(拓殖大学客員教授)、上杉千年(歴史教科書研究家)、遠藤浩一(評論家)、小川義男(狭山ヶ丘高等学校校長)、濱野晃吉(経営コンサルタント)、福田逸(明治大学教授)、梅澤昇一(尚美学園大学教授)、杉原誠四郎(武蔵野大学教授、世界日報ビューポイント執筆メンバー)、桜井裕子(元世界日報記者、「国民の油断」年表執筆者)
顧問/芳賀徹(東京大学名誉教授)
監事/平野富國
ただいえることは、役員には統一協会関係者もおり、日本や韓国の売国反動勢力が、この会を操っているということ。「新しい(反動)教科書」など売れないので、扶桑社も出版元を降りてしまった。
今回の件も、歴史を科学とみとめず、人間性や歴史の真実を打ち捨てて、しかも仲間同士内紛を繰り返した団体の、イヌの遠吠えであろう。沖縄県民をはじめ、良識ある日本国民はかかる売国反動勢力など認めないのである。
予科練とは何だったのだろう、と今も時々思うことがある。
中学三年やそこらで、何十倍もの倍率を潜り抜けて海軍に入り、学科はもとより、体技や武技と、厳しい訓練を受け、行動は制約されて、予科練を出れば飛練に進み、そこも出れば実施部隊に配属になる。そして、特務士官になるか下士官のまま往くかは別として、いざ出撃となれば生きて還る保証はない。
昔予科練の制服は、水兵とおなじジョンベラであった。これが七つ釦の格好いい制服となり、特に甲種飛行予科練の場合は、海軍兵学校に準じた進級や待遇などという当局の甘言もあって、今にして思えば、熱で浮かされたように、みな騙されて海軍の予科練を志願したのである。
小生の発信したある日のメールより。
「森兵男です。
元々のご質問の趣旨とは違う、余計なことを書いてしまいました。予科練のなかの甲飛、乙飛の対立ですが、ざっと以下のようなことです(コップの中の嵐のような話です)。
海軍航空隊の予科練習生の制度は、1930年(昭和5年)に横須賀の航空隊に設置されたのを嚆矢としますが、元々は高小卒(あるいは中学ニ年修了程度の)15歳から17歳程度の少年を三年間養成して、その後飛行戦技訓練を行って実戦力となる航空兵に仕立てようというものでした。
当初は甲種飛行予科練も、乙種飛行予科練もありませんでした。ところが、1937年(昭和12年)になると、従来より練習期間を半減させて一年半とし、募集も中学四年一学期修了(のちに中学三年修了)程度の者として、甲種飛行予科練の制度をつくり、従来の予科練は乙種飛行予科練となりました。
海軍は甲飛募集に際して、誇大な宣伝を行い、海兵と天秤にかけて甲飛に志願するものなどもあらわれ、甲飛として海軍に入ったものの騙されたと失望感を抱く者、屈折した者が出てきました。
一方、元々の予科練である、乙飛は自分たちより訓練期間も短く、下士官に任官するのも早い、甲飛にたいして面白い筈がなく、甲飛と乙飛が混在し、両者の勢力が拮抗しているような航空隊では、両者の反目、いがみ合いがあったのです。
海軍の制度上の問題に起因しているとはいえ、若い連中によくあるグループ間の軋轢という面もあると思います。
ちなみに、甲飛、乙飛とは別に、1940年(昭和15年)、一般の兵から航空兵に選抜する操縦練習生と偵察練習生を統合し、丙種飛行予科練習生(丙飛)としました。これは水兵や機関兵から選ばれた飛行兵の卵で、(略)『とっつあん予科練』とか呼ばれていました。この人たちはさすがに超然としていたと思います。
何か話が逸れたままで、すみません。」
実は、小生も海兵と天秤にかけていないが、陸軍幼年学校に進むのをやめて後に予科練に入ったくちである。純粋な愛国の志と口で言えば、聞こえがいいが、小商人の倅で門閥とも無縁、日露戦争直後に模範兵として兵役を送っていたのに差別されて伍長になれなかった親父から聞いた話や、学校に配属されていた陸軍の将校が機嫌の良いときに教えてくれた話を総合して、要領の良さや縁故の罷り通る陸軍よりも海軍のほうが公平そうだと子供なりに選択した道である。
しかし、その選択は死に直結していたのだ。小生は、1944年8月下旬の残暑厳しき頃、練習生が皆一堂に集められ、外部に話が漏れるのをおそれて暗幕まで張った薄暗いなかで、司令である大佐から「○(マル)兵器要員募集」について聞かされたときも、それが今までの予科練での訓練とは無縁な飛行機以外の特攻兵器であるということから、それには志願しないと無印で応募用紙を提出した。「○(マル)兵器」というのが、回天や震洋などであることは、すぐには分からなかったが、後で知ってやはり志願しなくてよかったと思った。自分は偵察要員、それも専門は電信である。どうせ死ぬなら、飛行機に乗って無線を飛ばしながら、あるいは得意だった機銃をうちながら死ぬのであれば本望だが、飛行機以外の死に場所は考えたくなかった。
なお、回天搭乗員では、小生の親戚でもなんでもないが、同姓の森稔君が特攻死している。
彼は狭い回天のなかで、近づきつつある敵艦に向かっていったとき、どんな心境だったのだろうか。回天などの訓練をしたものの、命拾いした人も少なくないが、回天にせよ、飛行機での特攻にせよ、十六、七の少年に死を覚悟させるのが、どれほど罪なことか。
【政治家Cさん】
「安倍首相は12日午後2時からの記者会見で、テロ対策特別措置法の延長問題に関して、『(インド洋での海上自衛隊の補給)活動を中断しないために職を賭(と)すと申し上げた。本日、民主党の小沢代表に党首会談を申し入れ、率直な思いと考えを伝えようとしたが、残念ながら、会談は実質的に断られた。局面を転換し、新たな総理の下でテロとの戦いを継続していくことを目指すべきではないかと考えた』と述べた。(2007年9月12日14時48分 読売新聞)」という。
「もういやだ」と政権を放り投げたという見方もあるが、あれだけ岸信介の真似をして首相の座に居座ろうとしていた人間がそう簡単に本人の意思で辞めるとも思えない。
松戸から津田沼までの、かつての陸軍鉄道連隊演習線は、今は新京成電鉄になっている部分が多いのだが、厳密には松戸に近い部分、八柱~常盤平~五香、初富~鎌ヶ谷大仏などは、元の演習線とはかなり外れたところを現在の路線が走っている。
それはあまりにも演習線が曲がりくねってつくられていたために、ショートカットしたのと、松戸付近については工兵学校ではなく、松戸駅に乗り入れさせるために、路線を変えたのである。
沿線を歩いてみると、確かに演習線の名残がうかがえる箇所がいくつかある。八柱などは、駅周辺に境界標石がいくつもあり、少し離れた森のホール付近にも廃線跡がある。今や21世紀の森と広場は、千駄堀の塹壕や鉄道連隊演習線が通っていたというイメージはない。家族連れが行楽にくる広々とした公園である。ほかにも、線路が通っていた場所は、いろいろあるが、松戸市内は廃線部分を探るのも、だいたいが宅地化されていて難しい。
千葉から津田沼までの演習線、あるいは軽便鉄道跡は、道路となっている部分が多いが、こちらも普通の道路にしか見えないところが多いようだ。京成大久保駅付近のハミングロードも看板がなかったら、廃線道路とは思われないかもしれない。
千葉市内、園生のモノレール付近を走る道路も廃線跡である。ここは古くは軽便鉄道といわれ、近隣住民も利用していたそうだ。今は、すっかり奇麗に舗装されたバス通りになっている。沿道の大きなせんべい屋さんのご主人に聞いたところ、国体までは少し遺構が残っていたそうだ。国体で付近をきれいにしたときに、その遺構はなくなったという。詳しくはわからないが、柵か何か残っていたのだろう。これがずっとのびて、こて橋のあたりを通り、さらに八千代市へ入って、大きく迂回する。新川を越える鉄橋の橋脚があるらしいのだが、すっかり夏草が茂っている現在、確認できなかった。
ところで、新京成は京成の子会社であるが、京成が陸軍鉄道連隊演習線を払い下げることができたために、作られた会社である。京成は西武鉄道と鉄道連隊演習線を払い下げを争ったが、千葉に本拠があることなどから京成に軍配があがったそうだ。それにしても、新京成とは言いながら、東京にも成田にも通っていないのだから、本来は松戸津田沼鉄道とか、呼ばれてもよさそうだが。
津田沼にある鉄道第二連隊跡は、今では大学になっているが、この第二連隊については、いろいろな噂がある。まあ、これは怪談を紹介するブログではないので、詳しくは書かないが、ここの新兵が搠杖(さくじょう)という銃器の手入れ道具を意地悪な古兵に井戸に投げ込まれてしまったことにまつわる幽霊話がある。ほかにも、あまり気持ちの良くない話を聞いたことがある。
軍隊に怪談はつきものだが、もっと科学的に鉄道連隊についてみていきたい。鉄道連隊演習線についても、時間はかかるが、もう少し探ってみようと思っている。