忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2025/06/19 23:28 |
手賀沼沿岸大井の福満寺
img_620043_20589213_0.jpg








現在は柏市になっている旧沼南町大井という場所は、旧沼南町でも比較的早くから開けた地区である。それは、手賀沼・大津川の水運をバックに、商業活動が早くから行われてきたためとされる。また、手賀沼は、本来風光明媚だったところで、手賀沼に面した我孫子などには志賀直哉をはじめとする文人や芸術
家が多くすんだ。

この大井といえば、手賀沼八景、「大井の晩鐘」の福満寺。ここの住職は、なかなかユニークな人物。
福満寺は、相当な古寺であるのだが、このお寺の正式名称は教永山福満寺積善寺という。ご本尊は阿弥陀如来で、天台宗の寺である。奈良時代に尊慶によって開山されたと伝えられるが、確か以前発掘で唐三彩か何か出ていたと思う。

福満寺は山門からして、古色蒼然としている。1728年(享保13年)に建てられたというが、鐘楼を兼ねた楼門造り山門で、「教永山」の扁額の文字が鮮やかである。山門は、香取神社の隣にあるのだが、神仏混交の昔は福満寺と香取神社は一体だったらしい。
しかし、山門を過ぎると、なぜ本堂まで下がっていくのであろうか、逆に上って行く寺はよくあるのであるが。それはともかく、相馬御厨がかつてあった場所は、鎌倉時代に相馬氏が支配下においたために、相馬氏が千葉氏、さらには平良文ら阪東平氏の流れを汲み、また平将門が本拠にした岩井も近いとあって、この辺りにも将門伝説がある。将門伝説は、市川大野にもあるし、このような手賀沼周辺にもある。
下総では北へ行くほど将門に同情的なものが多く、市川でも本八幡あたりに南下すると、将門を調伏する側の伝説(菅野様、八幡の藪知らず)が出てくる。また、成田山は将門を調伏するための祈祷を行った寺として、将門に同情的な地域の人は成田山には参詣しないという風習も残っている。

福満寺の近くにも、将門伝説の遺跡がある。それは、伝承によると、平将門が藤原秀郷に敗れてなくなった後、その妾であった車ノ前が遺児とともに大井の地に隠れ棲み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂をたてて、菩提を弔ったというものである。実際、車ノ前の墓と伝えられる五輪塔が、福満寺の裏にある。すなわち、福満寺南側の境外地の妙見堂の跡地に、その五輪塔はある。車ノ前が生前将門の菩提を弔うために妙見菩薩を祀る堂をたてたものが、現在の妙見堂跡といわれ、地元の人々は例年2月21日には将門の命日と称して妙見講を行っている。

そのほか、福満寺境内には、高城氏の家臣であった日暮玄蕃の供養塔とかあり、またそれについての「解説」などあるが、ちょっと荒唐無稽なので、ここでは述べない。
そのほか、福満寺境内には、「これいったい何?」と思う位、ごてごてと、いろんなものがあるが、住職の人柄を思えば、まあ仕方がないかと思ってしまう。

さて、手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の父常重が、その叔父常晴から1124年(天治6年)に相続し、1130年(大治5年)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝が領有した。当時、源義朝に千葉氏はしたがっており、つまり千葉氏は主筋に良いようにされたわけだ。千葉氏も未納分を返して権利を主張したが、義朝の方に分があったらしい。常陸の源義宗が相馬郡を領有して、さらに複雑な事態となり、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは1180年(治承4年)の頼朝挙兵後である。千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配したが、下総相馬氏は南朝につき、主力が奥州へ移ったため、衰退。戦国時代には、大井辺りも日暮玄蕃の主家である高城氏の領有するところとなった。

前述したように、大井は手賀沼、大津川の水運の拠点で、古くから商業活動も営まれていたようである。商業、流通は、物と同時に、人の行き来も伴うものである。そのため、大井は旧沼南町では、比較的開放的なところがあるのかもしれない。

静かな夕暮れに、「大井の晩鐘」は聞こえるだろうか。

(参考サイト)「薔薇の古城」   http://mori-chan.cocolog-nifty.com/dai2/
       なお、福満寺山門の写真は、上記ブログ筆者、森-CHANより借用した
PR

2007/10/08 12:43 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
沖縄戦の真相を歪める反動のイヌども

Ushijimachujyo.jpg太平洋戦争末期、米軍が沖縄に上陸し、多くの民間人が犠牲になったことは周知のとおりである。沖縄守備の第32軍は1945年(昭和20年)3月26日座間味などに上陸した米軍に押されて撤退を繰り返し、食糧の備蓄の少ない北部に非戦闘員を避難させるなどの指揮命令の混乱もあって、多くの県民が犠牲になった。第32軍司令官の牛島満中将は「爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ」という命令を残して1945年(昭和20年)6月22日あるいは23日早朝に長勇参謀長と共に摩文仁で自決した。牛島満中将自身は自決し、部下に捕虜になるな、最後まで戦えというのだから、無責任である。かくて日本軍の組織的な抵抗は終わり、各地で散発的な戦闘はあったものの、傷つき糧秣を失った日本軍、および中学生まで戦闘を行った沖縄住民は奥地の壕に隠れるか、絶望的な切り込みをかけて死ぬか、力尽きて米軍の捕虜になるかといった状況にあった。

敗走の続く中で、日本軍が沖縄の非戦闘員を含む多くの住民に対して何をしたのか、それは知られていない部分が多い。現在あふれる軍国調、つくられた美談ばかりの戦史のかげに隠れてはいるが、真相を語る証言は、一部、沖縄県史や証言集としてのこされた印刷物やHPに見ることができる。
たとえば、「沖縄戦の記憶」というHP(下記URL)には、以下のような記事がある。

http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/index.html


子どもは始末せよと脅されたが拒否
島里(旧姓島袋・35歳 ・男性 ・警防団)

一九四五(昭和二〇)年、美里の警防団員だった私は、羽地村には疎開せず部落に踏みとどまりました。当時、私は三五歳でした。(略)

四月二日、胡屋の部隊にいた島袋隆龍さんが壕に来て『胡屋の飯田隊は全滅したので、みんな早く家に帰って、子どもは始末しろ。もしもここらでうろうろするなら、たたっ斬ってやるから』と日本兵たちに脅かされたと、非常に興奮して話していました。

彼の話を聞くや私たちは驚きのあまり松本の壕をすぐに抜け出て家に戻り、西石川(イリーイシチャー・屋号以下同)の家族といっしょに泉作原(イジュンサクバル・美里の小字)に向かいました。泉作原にはたくさんの古い墓と自然壕があって、私たち家族もその自然壕に避難しました。どうしても長男の善晴だけは助けたいとの一心で本当に必死でした。(以下略)」

渡嘉敷村長の証言 
米田(?歳・村長)
 集団自決

私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。(略)

安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松*の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。(略)

上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。ぞれでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。
集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。

安里喜順巡査は(略)『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません』といっていた。私の意識は、はっきりしていた。

私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。
周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。

その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。

私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぼは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。

陣地を追っぱらわれた私たちは、恩納川原にひきかえした。一部は儀志保島に対面する、この島の北の瑞に移動していたようだった。その時自決用の手榴弾の爆発音と、生き残って途方を失った村民の阿鼻叫喚に、迫撃砲が誘われたように撃ちこまれていた。(略)

私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。 (略)

 集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、『我が国の軍隊は…』と軍人勅諭をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚の屠殺を禁止する、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。」 * 赤松嘉次大尉(筆者注:遺族、自由主義史観研究会等が最近名誉回復訴訟をおこした)

上記証言から集団自決への軍の関与は歴然であり、日本軍とは沖縄県民にとって、友軍か敵軍かわからない状況にあった。

集団自決について、軍の強制がなかったなどという、奇妙な説を唱える御用学者、反動ジャーナリズム(というより反動プロパガンダ)の連中がいる。しかし、陸軍大臣であった東條英機が中心となって、戦陣訓をつくり、「生きて虜囚の辱めをうけず」などの条文を1941年(昭和16年)に陸訓一号として布告した。それを陸軍のみならず、軍全体、国民全体に、ことあるごとに繰り返して達し、「捕虜になるくらいなら自決せよ」という考えを植えつけたのも周知の通りである。

Okinawa_01.jpg

そんな歴史的背景も、日本軍の実態も知らない者たちが、信念のために一命を投げ出す覚悟もないくせに、作り出したのがボウフラのごとく湧き出した反動団体である。その一つである、「新しい歴史教科書をつくる会」が最近沖縄戦に関する教科書検定のあり方に対する沖縄の自民党を含む県民各層の抗議の声に対し、水をさす馬鹿な動きをしている。

以下、朝日新聞HPより引用。

「つくる会『検定意見の撤回拒否を』 文科省に申し入れ
2007年10月04日19時01分

 沖縄戦で日本軍が住民に『集団自決』を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、『新しい歴史教科書をつくる会』は4日、文部科学省に対して検定意見の撤回をしないよう申し入れた。記者会見した会長の藤岡信勝・拓殖大教授は『軍の命令や強制がなかったことは実証された史実』であり、教科書会社による訂正を認めることは『検定制度の枠組みを外部の圧力によって有名無実化することになる』と述べた。」

この「新しい歴史教科書をつくる会」は西尾幹二が初代会長であったが、2002年に小林よしのりと西部邁が退会、2006年には西尾幹二も「つくる会」を脱会している。2006年初頭、一時八木秀次(日本会議系・統一協会?)が会長であったが、八木も無断での中国旅行をとがめられ、辞任。種子島経(キリストの幕屋の関係者)が会長となり、八木は副会長となったが、2006年4月に二人とも辞任、脱会し、高池勝彦(弁護士)が会長代行、藤岡信勝・福地惇が副会長となった。
その後、6月20日の理事会で、小林正(元社会党参院議員:統一協会の「天宙平和連合祖国郷土還元日本大会」横浜大会に出席)が会長に選出され、高池勝彦は藤岡・福地と共に副会長となった。同日、桜井裕子(元世界日報記者:統一協会員)が新理事に選ばれた。
なお、退会した八木は、2006年6月30日、つくる会と袂を分かつ形で「日本教育再生機構」を設立した。さきに退会した西尾幹二は八木について自分のブログ(「西尾幹二のインターネット日録」2006年4月8日)で以下のように述べた。

「私の家に3月8日に届いた最初の『警察公安情報』の出所が何処かは、勿論分らない。『発信04481』という信号は、私には何のことか見当がつかない。
 怪メール事件は2月27日と3月28日の二つの理事会の間に起こり、『つくる会』を揺さぶった。それが問題である。会が八木=宮崎プラス四人組のグループとそれ以外の勢力に完全に割れてしまっていることは、この問題を考える前提である。(略)
 3月20日福地惇理事は八木、宮崎両氏と会談した。八木氏は自分の方から『警察公安情報』の存在を知っているか、と問うた。福地氏は『単なる噂ではないか、自分は見ていない。それは何処に根拠があるのか』と問い質した。八木氏は『単なる噂ではない。公安情報を正式につかんでいる。警察公安と自分はパイプがあって、これには確かな証言がある』と自信ありげに、得意げに強調した。 (略) 氏は『公安のイヌ』になり下がっているのである。(以下略)」

このように、絶えず内紛を繰り返し、役員の入れ替りが激しいのだが、最近の体制は以下の通りである。

役員(2007年6月1日現在)
会長/藤岡信勝(拓殖大学教授)
副会長/福地惇(大正大学教授)
理事/市田ひろみ(服飾評論家)、九里幾久雄(浦和大学名誉教授)、高池勝彦(弁護士 百人斬り競争訴訟弁護団長)、高森明勅(拓殖大学客員教授)、吉永潤(神戸大学助教授)、石井昌弘(拓殖大学客員教授)、上杉千年(歴史教科書研究家)、遠藤浩一(評論家)、小川義男(狭山ヶ丘高等学校校長)、濱野晃吉(経営コンサルタント)、福田逸(明治大学教授)、梅澤昇一(尚美学園大学教授)、杉原誠四郎(武蔵野大学教授、世界日報ビューポイント執筆メンバー)、桜井裕子(元世界日報記者、「国民の油断」年表執筆者)
顧問/芳賀徹(東京大学名誉教授)
監事/平野富國

会長である藤岡信勝は、本人の言によれば、アメリカに1年滞在した後の1992年(平成4年)まで共産党員であった学者であるが、奥さんも元党員、その御父君舩山謙次氏も共産党支持者だったそうだ。なぜ転向して、今では御用学者になったか、「湾岸戦争で考えが変わった」という程度でなんら確たる弁明がなく、アメリカ滞在中に反動に何か取り込まれるような弱みができたのか、はっきりしない。
ただいえることは、役員には統一協会関係者もおり、日本や韓国の売国反動勢力が、この会を操っているということ。「新しい(反動)教科書」など売れないので、扶桑社も出版元を降りてしまった。
今回の件も、歴史を科学とみとめず、人間性や歴史の真実を打ち捨てて、しかも仲間同士内紛を繰り返した団体の、イヌの遠吠えであろう。沖縄県民をはじめ、良識ある日本国民はかかる売国反動勢力など認めないのである。

2007/10/08 12:32 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
予科練とは何だったのか

img_370440_20916977_0.jpg







予科練とは何だったのだろう、と今も時々思うことがある。
中学三年やそこらで、何十倍もの倍率を潜り抜けて海軍に入り、学科はもとより、体技や武技と、厳しい訓練を受け、行動は制約されて、予科練を出れば飛練に進み、そこも出れば実施部隊に配属になる。そして、特務士官になるか下士官のまま往くかは別として、いざ出撃となれば生きて還る保証はない。

昔予科練の制服は、水兵とおなじジョンベラであった。これが七つ釦の格好いい制服となり、特に甲種飛行予科練の場合は、海軍兵学校に準じた進級や待遇などという当局の甘言もあって、今にして思えば、熱で浮かされたように、みな騙されて海軍の予科練を志願したのである。

小生の発信したある日のメールより。

「森兵男です。

元々のご質問の趣旨とは違う、余計なことを書いてしまいました。予科練のなかの甲飛、乙飛の対立ですが、ざっと以下のようなことです(コップの中の嵐のような話です)。

海軍航空隊の予科練習生の制度は、1930年(昭和5年)に横須賀の航空隊に設置されたのを嚆矢としますが、元々は高小卒(あるいは中学ニ年修了程度の)15歳から17歳程度の少年を三年間養成して、その後飛行戦技訓練を行って実戦力となる航空兵に仕立てようというものでした。

当初は甲種飛行予科練も、乙種飛行予科練もありませんでした。ところが、1937年(昭和12年)になると、従来より練習期間を半減させて一年半とし、募集も中学四年一学期修了(のちに中学三年修了)程度の者として、甲種飛行予科練の制度をつくり、従来の予科練は乙種飛行予科練となりました。

海軍は甲飛募集に際して、誇大な宣伝を行い、海兵と天秤にかけて甲飛に志願するものなどもあらわれ、甲飛として海軍に入ったものの騙されたと失望感を抱く者、屈折した者が出てきました。
一方、元々の予科練である、乙飛は自分たちより訓練期間も短く、下士官に任官するのも早い、甲飛にたいして面白い筈がなく、甲飛と乙飛が混在し、両者の勢力が拮抗しているような航空隊では、両者の反目、いがみ合いがあったのです。
海軍の制度上の問題に起因しているとはいえ、若い連中によくあるグループ間の軋轢という面もあると思います。

ちなみに、甲飛、乙飛とは別に、1940年(昭和15年)、一般の兵から航空兵に選抜する操縦練習生と偵察練習生を統合し、丙種飛行予科練習生(丙飛)としました。これは水兵や機関兵から選ばれた飛行兵の卵で、(略)『とっつあん予科練』とか呼ばれていました。この人たちはさすがに超然としていたと思います。

何か話が逸れたままで、すみません。」

実は、小生も海兵と天秤にかけていないが、陸軍幼年学校に進むのをやめて後に予科練に入ったくちである。純粋な愛国の志と口で言えば、聞こえがいいが、小商人の倅で門閥とも無縁、日露戦争直後に模範兵として兵役を送っていたのに差別されて伍長になれなかった親父から聞いた話や、学校に配属されていた陸軍の将校が機嫌の良いときに教えてくれた話を総合して、要領の良さや縁故の罷り通る陸軍よりも海軍のほうが公平そうだと子供なりに選択した道である。
しかし、その選択は死に直結していたのだ。小生は、1944年8月下旬の残暑厳しき頃、練習生が皆一堂に集められ、外部に話が漏れるのをおそれて暗幕まで張った薄暗いなかで、司令である大佐から「○(マル)兵器要員募集」について聞かされたときも、それが今までの予科練での訓練とは無縁な飛行機以外の特攻兵器であるということから、それには志願しないと無印で応募用紙を提出した。「○(マル)兵器」というのが、回天や震洋などであることは、すぐには分からなかったが、後で知ってやはり志願しなくてよかったと思った。自分は偵察要員、それも専門は電信である。どうせ死ぬなら、飛行機に乗って無線を飛ばしながら、あるいは得意だった機銃をうちながら死ぬのであれば本望だが、飛行機以外の死に場所は考えたくなかった。

なお、回天搭乗員では、小生の親戚でもなんでもないが、同姓の森稔君が特攻死している。
彼は狭い回天のなかで、近づきつつある敵艦に向かっていったとき、どんな心境だったのだろうか。回天などの訓練をしたものの、命拾いした人も少なくないが、回天にせよ、飛行機での特攻にせよ、十六、七の少年に死を覚悟させるのが、どれほど罪なことか。


2007/10/08 12:29 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
私は○○で▲▲をやめました
img_370440_20352730_0.jpg








本当に、最近の政治はいったいどうなってるの? 

ひと昔以上前であるが、こんなCMがあった。

【禁煙者Aさん】

 私は、コレでタバコを止めました。


【禁煙者Bさん】

 私も、コレでタバコを止めました。

 
【政治家Cさん】

 私は、カネで大臣を辞めました。

 (例の赤城のバンソウコウ大臣や、最近では遠藤農林大臣とか。。。)


そして、今日のニュース・・・。


【日本国首相Aさん】

 私は、無能で首相を辞めます。

確かに、田中真紀子にも「馬鹿だから・・・」と言われるほど、阿呆だし、党内をまとめる求心力もなければ、年金問題や経済問題で国民生活を守る責任感もなかったしなあ。 

報道によれば、
「安倍首相は12日午後2時からの記者会見で、テロ対策特別措置法の延長問題に関して、『(インド洋での海上自衛隊の補給)活動を中断しないために職を賭(と)すと申し上げた。本日、民主党の小沢代表に党首会談を申し入れ、率直な思いと考えを伝えようとしたが、残念ながら、会談は実質的に断られた。局面を転換し、新たな総理の下でテロとの戦いを継続していくことを目指すべきではないかと考えた』と述べた。(2007年9月12日14時48分 読売新聞)」という。

この所信表明演説をした後で辞めるというのは、裏に何かあるのだろう。インド洋での海上自衛隊の補給活動を中断しないために云々と直前言っていたのであるから、アメリカからの圧力なり、無能なアベではだめだというサジェスチョンがあったのかも知れない。
「もういやだ」と政権を放り投げたという見方もあるが、あれだけ岸信介の真似をして首相の座に居座ろうとしていた人間がそう簡単に本人の意思で辞めるとも思えない。

(マルマンさん、またもや勝手にCMのマネしています。小生も昔「マルマン深夜劇場」を時々見ていました関係上、ご勘弁願います)

2007/10/08 12:24 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某
陸軍鉄道連隊演習線
img_370440_18826601_2.jpg








松戸から津田沼までの、かつての陸軍鉄道連隊演習線は、今は新京成電鉄になっている部分が多いのだが、厳密には松戸に近い部分、八柱~常盤平~五香、初富~鎌ヶ谷大仏などは、元の演習線とはかなり外れたところを現在の路線が走っている。

それはあまりにも演習線が曲がりくねってつくられていたために、ショートカットしたのと、松戸付近については工兵学校ではなく、松戸駅に乗り入れさせるために、路線を変えたのである。

沿線を歩いてみると、確かに演習線の名残がうかがえる箇所がいくつかある。八柱などは、駅周辺に境界標石がいくつもあり、少し離れた森のホール付近にも廃線跡がある。今や21世紀の森と広場は、千駄堀の塹壕や鉄道連隊演習線が通っていたというイメージはない。家族連れが行楽にくる広々とした公園である。ほかにも、線路が通っていた場所は、いろいろあるが、松戸市内は廃線部分を探るのも、だいたいが宅地化されていて難しい。

千葉から津田沼までの演習線、あるいは軽便鉄道跡は、道路となっている部分が多いが、こちらも普通の道路にしか見えないところが多いようだ。京成大久保駅付近のハミングロードも看板がなかったら、廃線道路とは思われないかもしれない。

千葉市内、園生のモノレール付近を走る道路も廃線跡である。ここは古くは軽便鉄道といわれ、近隣住民も利用していたそうだ。今は、すっかり奇麗に舗装されたバス通りになっている。沿道の大きなせんべい屋さんのご主人に聞いたところ、国体までは少し遺構が残っていたそうだ。国体で付近をきれいにしたときに、その遺構はなくなったという。詳しくはわからないが、柵か何か残っていたのだろう。これがずっとのびて、こて橋のあたりを通り、さらに八千代市へ入って、大きく迂回する。新川を越える鉄橋の橋脚があるらしいのだが、すっかり夏草が茂っている現在、確認できなかった。

ところで、新京成は京成の子会社であるが、京成が陸軍鉄道連隊演習線を払い下げることができたために、作られた会社である。京成は西武鉄道と鉄道連隊演習線を払い下げを争ったが、千葉に本拠があることなどから京成に軍配があがったそうだ。それにしても、新京成とは言いながら、東京にも成田にも通っていないのだから、本来は松戸津田沼鉄道とか、呼ばれてもよさそうだが。
津田沼にある鉄道第二連隊跡は、今では大学になっているが、この第二連隊については、いろいろな噂がある。まあ、これは怪談を紹介するブログではないので、詳しくは書かないが、ここの新兵が搠杖(さくじょう)という銃器の手入れ道具を意地悪な古兵に井戸に投げ込まれてしまったことにまつわる幽霊話がある。ほかにも、あまり気持ちの良くない話を聞いたことがある。

軍隊に怪談はつきものだが、もっと科学的に鉄道連隊についてみていきたい。鉄道連隊演習線についても、時間はかかるが、もう少し探ってみようと思っている。


2007/10/08 12:21 | Comments(0) | TrackBack() | 反軍下士官森某

| HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]